>日本国の経済的な挫折や第3次世界大戦への危機が目の前に迫っているこの時期に、天皇制といういつでも討論できるようなテーマをぶっつけてくるのは何故だろか?などと、謀略のイロハを思い出しながら板の動きを眺めていますが...
政治的制度ではなく、国民的価値観として今なお重要な位置を占めている天皇制は、良きにつけ悪しきにつけ、日本国の行く末に影響を与えるものだと考えています。
今回書いた目的は、天皇制を政治から切り離して明治維新以降の近代史を捉え直そうというものです。
言ってしまえば、右翼・左翼がこぞって天皇制を取り上げているが、それは近代国家日本の動きに直接関係あるものではないから、棚上げしようという提案です。
近代130有余年でやっかいな問題になった天皇制は日本という近代国家の衣装であったかもしれないが、政治権力の実体は別のもので動かされてきたと考えています。
天皇を崇拝したり敬愛するのも勝手、天皇を悪魔と考えるのも勝手と認め合うことで、現在の国難や国際情勢にどう処していくかという議論がまっとうにできると思っています。
端的に言えば、天皇を尊重しているから愛国者、天皇に反対しているから非愛国者ないし売国奴という不毛な精神情況を解消したいということです。
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「教科書」的明治維新観からの脱却を投稿者 あっしら 日時 2002 年 11 月 20 日
>法律、なかんずく憲法は現実の反映と言うよりもむしろ将来にわたる規範というか望ましいと考えられる方向を示したものだと考えているからです。だから、明治憲法が制定されたから直ちにその通りにならなかったからと言ってなんらおかしいことはない。諸外国でも同じような試行錯誤の結果としてそれぞれの国体を形成されていると思います。
「制定されたから直ちにその通りにならなかった」ことを云々しているわけではありません。
憲法や法律の規定がそのまま内実的に適用されるわけではないと考えていますが、明治憲法の規定も含めて、形式的外見的には適用されています。
法的規定や形式的統治構造では見えない政治過程を捉える必要があると思っています。
せっかくお考えを提示してもらったので少し批判させていただくと、現憲法の前文や教育基本法ならそのようなお考えでもいいと思いますが、憲法本文は、統治構造を規定するものであり、その内容が諸法律の基礎となり行政の課題となるものですから、「その通りにならなかったからと言ってなんらおかしいことはない」というものではありません。
とりわけ統治構造の規定は、それがその通りに施行されなければ、国家の体を為さなくなります。
そして、被支配者は、規定を頼りに生活していかざるを得ません。
>徳川400年(でしたか?)の治世の末期の状況は支配階級である武士の極端な退廃と町民層の極端な貧富の差によって非常に不安定な状態にありました。
300年の徳川時代が不安定な状態になったのは、諸外国の圧力のなか、それにどう対応するかという対立が国内で起きたからであり、「支配階級である武士の極端な退廃と町民層の極端な貧富の差」が進んだからではありません。
江戸期の後進性や政治的腐敗をことさら描くのは、徳川幕府を倒して政権を樹立した勢力が歴史教育を行ってきたからです。
>徳川から統治権を引き継いだ新政府は、だから、世情の安定から統治を始めなければならなかったわけです。しかも、アメリカからは黒船が来て開国を迫る。辺境にあって徳川の目が行き届かなかったために武器・兵法・キリスト教に至るまで西洋の事物に接することが出来ていた新政府の高官には、宣教師や貿易商人の口を通して、植民地化され国としての主体性を奪われている東南アジアの状況が解っていたのでこれに対する対策も講じなければならない。と、いわゆる「内憂外患」の状態が新政府の出発点であったわけです。
幕府は現実主義的なやむを得ない開国派で、新政府は、国内騒然を引き起こしたかつての攘夷派だと言え、既に開国派に転じた勢力が打ち建てたものです。
開国後の諸外国はそれぞれ日本に対する権益拡大を企図し、英国は薩長に肩入れし、フランスは幕府に肩入れするという状況であり、植民地化の危機は既になくなっていました。
米国は南北戦争(1865年終結)の後始末に追われ、欧州は、ドイツやイタリアの台頭で風雲急を告げ、1870年には普仏戦争が勃発しています。(フランスの敗戦)
既に大英帝国の絶対的優位は揺らぎ、植民地の拡大ではなく、新興国から既得権益を守るという姿勢に転じていました。
幕府は、中国の現状を知っていたので、植民地化されたり戦争で領土を割譲されるよりはましだという現実主義的判断で開国に踏み切ったのです。
危険な冒険主義に走ったのは、英国と戦端を開いた長州であり薩摩です。
>このような中で彼らは何を考えたか。諸外国の干渉と植民地化を防ぐための方策を建てなければならない。諸外国に乗じられることの無いように国内の安定を図らねばならない。それらは休む間もなく急いでやり遂げねばならない。しかし国内の工業力は絶望的な後進の状況だ。こうした八方ふさがりの中で、何とか考え出されたのが、天皇制の強化確立と言う、ある意味では麻薬にも似た国体の採用だったのではないかと考えています。つまりは沈没しかけている船を救うための緊急対応として打ち出されたものではなかったかと考えています。
明治維新政府は考えたのは、すぐに征韓論が打ち出され江華島事件も起きたように、英国を真似た対外拡張政策です。
欧州情勢を睨みつつ、欧州諸国の利権が及んでいない朝鮮半島に利権を求めたのです。
そのために、「地租改正」や「徴兵制」という国民が疲弊する政策をとるかたちで軍備の拡張に励みました。
幕末と明治初期の農民反乱の発生件数を比較すれば、どちらがより国内騒然であったがわかります。
明治に入って農民反乱が多発したのは当然と言えば当然です。
年貢米でよかったものが金納になり、入会権として維持されてきた山林が私的所有地になり、働き頭の青年が兵隊に採られるようになり、有償の義務教育まで押し付けられる事態になったのですから、一般農民の生活はひどく困窮するようになりました。
近代的軍備の拡張は徴税と輸入で行われたのですから、国内の経済は疲弊します。
経済状況は短期間で変わるものではないので、行政機構が肥大化し、軍事組織がより強化されれば、国民負担が増大するのは自明のことです。
その上、維新政府は、外国金融家に奉仕するために、金と銀の両替レートをおかしく設定して、ほとんどと言える金の流出を招きました。
(情報がなかったからという言い訳がされていますが、そんなことはありません。百歩譲っても、ほぼ全量の金が銀に変わるまで手を打たないということは考えられないことです)
そして、保有する金がほとんどなくなったために、政府は英国を中心とした金融家から借金をしながら輸入を賄っていったのです。
(信用が低く見られていたので高利での借り入れでした)
天皇制価値観の強化と国民へのその醸成は、このようなはちゃめちゃな政策を覆い隠すためであり、議会開設など高まる政治的対立を抑え込むための手段です。
その後にしても、江戸時代であれば年に90日間も働けば生活ができていたのに、年間300日ほど働いてようやく生活できるという状態が続いたのです。
単なる空想ですが、江戸期の本百姓が昭和初期の庶民の生活と比較して、昭和初期の生活を選択するとは思えません。
7/3/28
下につづく

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