『
戦後日本が豊かになったのはただ単に「より多く働くようになった」から!?』
『
“自然の恵み”ではなく“人々の恵み”が産業を発展させ生活も向上させてきた。』
の続きです。
戦後日本の歴史を顧みれば、食糧の確保さえままならなかった戦後混乱期から、働けば少しずつ“近代生活”を手に入れられる高度成長期を経て、お金を払ってひとに面倒をみてもらったりお金がかかる遊びに興じるようになり、ついには、庶民のあいだでもお金を金融取引で増やそうとする動きが見られるようになったという変容過程を窺い知ることができる。
(戦後混乱期に金融取引やサービス業がなかったというわけではなく、平均的庶民の生活様態だとご理解いただきたい)
今回は、近代の経済論理を理解するために、このような「農業(漁業・牧畜)→産業→商業・サービス業→金融業」という経済の発展形態を考えてみたい。
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「産業資本主義」の終焉:戦後日本の「農業(漁業)→産業→商業・サービス業→金融業」発展形態:「労働の交換」を理解するため投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 14 日
戦後日本の発展形態は、人という生き物の生存活動の優先度と社会的分業(貨幣を媒介とした労働の交換)の動態的変化をわかりやすく示している。
人は、まず何より生き続けるために食糧を確保しなければならない。
衣服は“恥”を隠したり寒さをしのげるものであればよく、住居は洞窟だろうが粗末な掘っ立て小屋でもいい。
戦後日本には既に近代産業の技術や労働作法を知っている人が数多く存在し、彼らが日々の活動力を支える食糧を手に入れ、日本で産出できない原材料を確保すれば、産業の再生を図れる条件にあった。
その支援をしてくれたのが、意図や目的は別として、戦後日本の在り方を決めた米国政権(支配層)である。
自家消費を超える農産物を生産している農民も、産業が生産する財が手に入らないという状況であれば販売に意味を感じないから増産意欲を持たなくなる。
(戦後混乱期の農民は貨幣ではなく物と米を交換したのはこの反映である)
農民が欲しい財を生産する産業の復興が、農業生産の拡大の必要条件である。(徴兵されていた主要な働き手が復員したことでその条件も整う)
渦中を生きていた人たちは論理もクソもなくただひたすら家族が生き延びるために日々の生活に励んでいたはずだが、産業が確立(復興)するためには、経済取引によるものであれ、政府の徴用と配給を通じたものであれ、農家が余剰の食糧を生産していなければならないという論理が基礎にある。
(共同体(国家)の構成員全員が食糧生産(確保)にいそしまなければ生存できない状況であれば、地から超然とした支配層も生まれ出ない)
“自然の恵み”を受け時間の余剰もある農民から自生的な工業は発展していくが、自立した産業が生まれるためには、それに従事する人たちの生存を支えるために、農民自身と国家機構に属する人たちの食糧需要を超える余剰が必須条件なのである。
(もちろん、英国のようにそれが北米大陸から輸入する食糧で賄われていてもいい。現在の日本のような低い食料自給率でも国家社会が存続できているのは、そのような歴史過程を経て輸入で食糧が手に入れられる強力な産業国家を築いたからである)
日本は朝鮮戦争特需を契機として高度成長期に入っていくが、成長を支えたのは、対米輸出であり、余剰食糧を生産する農民の需要であり、生産性の上昇とともに実質給与を徐々に増やした産業勤労者の需要である。
とにかく輸出で稼がなければ産業が必要とする日本にない原材料を手に入れることができない。
(そうはいっても発生する輸入決済用のドル不足は国際借り入れに依存していた。これは70年頃まで続いた。そして、借りたドルを日本円で返済するわけにはいかないから、利払いと元本返済のためさらに輸出に励まなければならない)
国内市場においては農民の購買力が重要な位置を占めていた。
当時の日本で層として唯一とも言える財を余剰に生産している農民がそれを売って手にした貨幣を産業が生産した財を買ってくれなければ、産業は、産業勤労者に支払った給与を回収できないのでうまく回っていかないからである。
ここで考えて欲しいのは、産業が輸出以外では富(貨幣的余剰)を生まないということである。
当時の日本の貿易収支は基本的に赤字だから、近代的産業の“真の利潤”である国外からの貨幣的富(余剰)の流入超過はなかった。
厄介なことに、産業勤労者は、家族ともども生きていくために必要な食糧を農民から購入しなければならないのだから、給料全額を産業が生産した財の購入に費やすことはできない。
これは、産業総体として、産業内連関では支払った給料の全額が回収できず、利潤の獲得どころか費用の回収さえできないことを意味する。
農民が産業勤労者に食糧を販売して得たお金すべてを産業が生産した財の購入に費やすことで初めて産業総体としてトントンの収支になる。
(これは産業総体に戻ってくるという話で、具体的にどの企業に戻ってくるかという問題とは別だから、利益を上げる企業もあれば、損失を被る企業もある。また、農民や産業勤労者そして公務員がタンス預金をすればその分は回収不足になる)
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※ このような状況にあった日本の産業を支えていたのは、日銀と銀行が行った「信用創造」である。
どこかの企業が新たに借り入れたお金は、別の企業への支払いになるのが通常だから、新規借り入れ分だけ産業全体の回収可能金額が増加することになり、絶妙な生産調整が行われていれば、どの企業も利益を上げることができる。
戦前・戦中の苦い経験や資金不足が続いていた事情から、東京オリンピック頃までは赤字財政支出はなかった。
貿易収支も赤字だったのだから、日本の産業は、銀行の「信用創造」を利益源にしていたことになる。
高度成長期が高率インフレの時代だったことは、年々膨大な「信用創造」が行われていたことを意味する。
当時は円ドルが固定レート(1ドル=360円)だったので、日本のインフレ率が米国のインフレ率を下回っている限り、国際競争力がインフレ率の差分だけ自動的に上昇する論理にあった。
このようなことから、当時の(大蔵)官僚は、経常収支動向と物価動向を気にかけなら政策を決めていた。
(内外で潜在需要が高い産業分野に資金を融通し、その行き過ぎを経常収支動向と物価動向でチェックするという“統制経済政策”である)
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この頃の日本は、産業勤労者の実質所得は低かったので、料理も洗濯も繕い物もお母さんがやるもので、サービスの購入は医療やたまに楽しむ外食といったものだった。
手間暇を惜しむよりもお金のほうが貴重で、穴のあいた靴下も、捨てるものではなく母親が繕って履き続けた。
(家電製品や自動車などの輸送機器は一部富裕層が買うものだった)
商業も、家族経営の商店がほとんどで大都市部にデパートがあるという程度だった。
スーパーが目立つようになったのは60年代中期以降である。
これは、その当時の庶民の可処分所得が食糧や日常的な衣服や雑貨を買い求める程度でしかなかったことから、庶民向けに大規模な近代的商業が林立する経済条件はなかった。
戦後日本の産業は、輸出振興を第一義に、農民も産業勤労者も欲しい(必要な)生活利便品(衣服や日常生活用品)の生産を重点を置いたもので、そのための産業活動の制御は、基本的に貸し出し先の選別によって行われた。
民間(企業と家計)に余剰資金がほとんどなく外国為替取引も規制されていたから、企業を興すにしても、設備投資をするにしても、銀行から貸し出しを認めてもらえるかどうかが実現できるかどうかの決め手だった。
(今は傲慢な政策を口にしているトヨタもそのような保護政策を通じて大きくなったのである)
日本が本格的に高度成長に入ったのは米国から最先端製造ノウハウを導入し始めてからである。
それにより生産性が大きく上昇し、生産量が増えた財は米国など輸出にされ、70年頃には貿易収支も黒字基調になった。
(スクラップ&ビルドを通じた急速な生産性の上昇とその成果を活かした輸出の増加)
生産性の上昇によって増加した財が全量輸出できるのなら、守銭奴的に強欲な企業経営者が給料を上げなくても企業経営に支障をきたすことはない。
しかし、繊維・鉄鋼・TVなどで日米貿易摩擦が起きたように、安くて品質もいいからといって自国経済(国民生活)が破壊されるような量の輸入を受け容れる国家はない。
そうであるなら、強欲な企業経営者であっても従業員の給料をアップせざるをえない。
そうしなければ、産業は、過剰な設備投資の重荷で倒れることになる。
(産業総体が給料を上げたのは、論理的には“自己保身”なのである)
8/1/25
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