「国家としての「敗戦責任」を問わずに国家を語る愚」
天皇と近代日本
国家が国策として戦争を遂行した結果、敗戦し長期の占領支配を受け国家社会の在り方の変更を強いられた事実がありながら、継続している国家がその責任を論じないで済ませられると考えるのなら、国家の尊厳などを語られることを控えられたほうがよろしい。
占領がなくとも、国家が国策として戦争を遂行し敗戦すれば、戦争目的の是非からはじまって開戦判断・遂行体制・戦術問題さらには戦争終結判断に至るまで検討の対象にし、敗戦の責任を明確にするのが責務です。
この責務を果たすことなく、国家が、「お国のために身を捧げた」英霊をまつるなぞおこがましいと断じます。
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国家としての「敗戦責任」を問わずに国家を語る愚投稿者 あっしら 日時 2003 年 10 月 30 日
>それはそうとして、今日はあまり述べる時間がないのですけれども、要するに戦争(敗戦)責任という視点には「だれそれのせい・だれそれが悪かった」というところにどうしてもアクセントがあるでしょう?
国家(国民)が、国家が自ら総力をあげて遂行した戦争の「敗戦責任」を、「だれそれのせい・だれそれが悪かった」というレベルの論議でよしとするのなら、その国家国民にまともな未来はないはずです。
戦争を止めることができなかったことこそを自戒しその責任(問題点)を追及しなければならないのに、我が党だけは一貫して戦争に反対したと胸を張り、軍部が悪かったとか天皇絶対政が悪かったからだと説明している日本共産党と国家を同列に置くわけにはゆきません。
「だれそれのせい・だれそれが悪かった」という流れの議論になったら、微力ながら徹底的に諌める論陣を張ります。
責任を明確にすることは、人格を非難したり攻撃することではありません。
責任の明確化が人格非難であるかのように錯誤するから、まともな議論ができない状況があると思っています。
(ことさら言わなくとも、本人は責任を自覚しているはずだという思い遣りがある国民性であることは承知していますが、「敗戦責任」という重大問題をそのようなレベルで見過ごすことはできません)
>「いや、個々の事象についての客観的な失敗者を特定するだけだ」とおっしゃるのでしょうけれど、それなら道徳的・法的な非難という意味を排除した「敗因」とか「失敗理由」を分析すると言えばよいのです。
やはりご理解いただけないようですね。
「個々の事象についての客観的な失敗者を特定するだけだ」という考えで、「敗戦責任」を論議しようとしているわけではありません。
周辺にある書き込みの内容をお読みいただければ、それはご理解いただけると思っています。
また、道徳的・法的な非難を意図しているわけでもありません。
様々な道徳的観点から「敗戦責任」を論じて欲しいと思っていますし、法はどういう権限がどういう機関(人)に割り当てられていたかという問題で意味を持つものだと思っています。
個人が出てくるとしても国家機構的地位にある個人であり、その地位がどういう判断をしたのかを問うものです。(全人格の是非を論じるわけではありません)
戦争は国策の実現手段ですから、戦術や戦闘の「敗因」とか「失敗理由」に限定されるものではありませんが、「敗因」とか「失敗理由」をきちんと論議すれば、機械が動いたわけなく特定の国家的地位にある生身の人間が決定したことですから、「敗戦責任」そのものにつながります。
>それ以前に、何が成功で何が失敗なのかという基準は客観的・普遍的ではありえないでしょう。「大東亜戦争肯定論」の側に立つ人々は、私も含めて戦争に負けたからといって「失敗だった」とか「やらないほうがよかった」とは言わないのです。今回はもう話す時間は無いけれども、ここには複雑な問題があるのです。この基準は人によって異なるということだけは、確かなのです。
もちろん、「失敗だった」とか「やらないほうがよかった」ではない論議も大歓迎ですし、人によって基準が異なるからこそ議論が有用なのです。
「何が成功で何が失敗なのかという基準は客観的・普遍的ではありえない」ことは確かですが、客観的普遍的基準がないまま、今でも国家統治者は不断に国策を選び取り決定しているのです。
客観的普遍的基準がないからこそ、国家レベルでの議論が必要なのです。
(客観的普遍的基準があるのなら、議論は必要ありません)
7/4/10

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