鳥の目と虫の目 さん:
この度は、本当に心のこもったご返事ありがとうございます。
考えていたことを100%理解して頂いて、そのうえに、あれほどにふくらませてご返事頂いたことに、本当に感謝いたします。
「開かれた地域共同体」という未来像の提示をいただき、昨日、さまざまな文章をじっくりと読ませて頂きました。
もう一つだけ、質問させて頂いてよろしいですか。
じつは昨年末、今の時代についての自分なりの思いをまとめてみた文章があるのですが、それをまず載せますので、はじめに目を通して頂ければと思います。
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理想と現実を結ぶ付ける『現実的な』筋道は…-----------------------------------------------------
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さて、読んで頂ければわかると思うのですが、自分なりに問題を考えていっても、一方での、現在はまりこんでいる悪循環の連鎖と、そしてもう一方での、将来に理念的に想起されるかもしれない未来像と、この二つの有様の間が、どのような、“現実的”“具体的”な筋道で結びついてゆきうるのかが、なかなか自分でも言葉になりません。
いまの農業・農村の現場には、実にたくさんの、誠実さとひたむきな努力が払われています。
しかし、一方で、「カネがすべてではない。しかし、カネがすべてを左右する」という現実を嫌と言うほど幾度も幾度も思い知らされてきたのも、現在の日本の農村です。
あちこちに矛盾があるのです。
とりわけ大きな矛盾だと思うのが、「個人」や「自由」という言葉です。
それらは現状の困難から抜け出そうとするときの、大きな一歩でもあり、同時に、我々を裸の存在へと追いやってゆく危険な言葉でもあります。
たとえば、現状のままではだめだと強く自覚した人が、「自己」を強調するとします。
するとそれは、じつは言葉にならないところで、ある種の共同性、従来存在していた総合性を、知らないうちに否定することにもつながってしまう。そして、『現実的』な対案が提出できなければ、その否定性の契機のみが一人歩きして、今の時代の歯車を回す事へと結びついていってしまうのです。
あるいは、たとえば、「自由」に商品を選べる買い物を、多くの人は楽しいと思いますよね。でも、その自由の行使というものは、同時に、その裏側で、その人に自由に選ばれてしまうことで、それ以前にありえていた関係性を否定し切断してゆく行為でもあるということになかなか思いが及ばない。あるいはそれに気がついたとしても、『現実的』に、それ以外の関係を選びきれるかというと心許ない。
そうしたことをすべて考えながら対処できるような生き方なんて、そうそうにできるものとも思えない。あらゆるものが容易に選べなくなってしまう。だからこそ、関係性を切断して自由を行使する側の自分と、相手方の自由の行使の前で切り捨てられてゆく立場の側の自分と、この二つの人格の矛盾を、誰しも飼い慣らしながら、黙々と歩いていくしかないようにも思えてしまいます。
そして、そうした僕らの日常をすべて飲み込んで、この地球を覆っている世界の覇権を自覚する人々は、今まさに、世の中の仕組みを動かしているメカニズムを、淡々とさらにいっそう推し進めてゆこうとしているのです。
マルクスが提起した、『二重の意味の自由』という概念規定をつくづくと思い知らされます。
すなわち、自由とはある種の関係性の切断のうえに成り立っており、人々が自由を高らかに掲げて、嬉々として自由を行使していった果てに、あらゆる既存の関係性から切り離された、自由を行使せんとする心情のみの裸にされてしまった人間が、自らの生存基盤も、濃密な人間関係をも失ってしまって、殺伐とした世界のなかに立っているという状況です。
この矛盾は、いったいどうしたらほどくことが出来るのでしょうか。
自分自身を顧みても、この矛盾の前で右往左往している姿しかなかなか思い描けません。
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「近代」そして「個人」と「自由」投稿者 あっしら 日時 2004 年 2 月 02 日
鳥の目と虫の目さん、レスありがとうございます。
「近代」に対する認識について大いに共感しながら拝読しました。
「産業主義近代」が終焉を迎えようとしている今、説明されている共同体性の瓦解とそれに代わる国家的貨幣媒介的統合の意味を踏まえつつ、「近代」の歴史的特殊性とそれを支えている経済論理を掴み取ることが重要だと考えています。
「産業主義近代」を「近代」とみなすなら、「ポスト近代」が、「金融主義近代」になるのか、「開かれた地域共同体」的“非近代”になるのかの岐路に立っていると思っています。
「金融主義近代」は、曲りなりに維持されてきた国家による共同体性さえ打ち捨てるものになるはずです。
人々の活動が金融利得者への“奉仕活動”になる、と認識されるより、なんとか生きていくためのお金を稼ぐために身を犠牲にする(実存性をあきらめる)人々が溢れる国家社会状況になると推測しています。
>いまの農業・農村の現場には、実にたくさんの、誠実さとひたむきな努力が払われています。
>しかし、一方で、「カネがすべてではない。しかし、カネがすべてを左右する」という現実を嫌と言うほど幾度も幾度も思い知らされてきたのも、現在の日本の農村です。
「カネがすべてではない。しかし、カネがすべてを左右する」は“痛い”表現ですね。
理念として「カネがすべてではない」と思っていながら、現実は「カネがすべてを左右する」ことがわかっている人の苦悩はただならぬものがあるはずです。
いっそ、「カネがすべてを左右する。だから、カネがすべてである」と現実認識と理念が一体化したほうが救いがあるのかもしれませんね(笑)
人々の関係性の媒介物(人々の社会的分業に基づく活動成果の交換手段)でしかないカネが絶対的な存在して立ちはだかっている現実が、人々を打ちひしがすとともに人々を金儲けに駆り立てていると思っています。
>あちこちに矛盾があるのです。
>とりわけ大きな矛盾だと思うのが、「個人」や「自由」という言葉です。
>それらは現状の困難から抜け出そうとするときの、大きな一歩でもあり、同時に、我々を裸の存在へと追いやってゆく危険な言葉でもあります。
「個人」に先立ちというか「個人」がある「個人」になるためには、他者関係性が同時的に必須であると考えています。他者関係性を捨象した「個人」という存在はないという見方です。
早とちりをされると、国家や社会という観念的存在を優先する“全体主義”の表明と受けとめられてしまう内容ですが、この人間観というか社会観は「近代」批判の根底的な立脚点になると思っています。
また、「自由」についても、根源的な意味での自由はないという考えをしています。
対象とする自然から受ける規定性や他者関係性で生じる規定性のなかで、「個人」はでき得る限り快適で楽しい日々を送る“自由”しかないと思っています。
有り余るほどのお金を保有していれば「自由」になれるという意識もあると思っていますが、それは、直接的な他者規定性を避けられる(嫌な状況に身を置かなくてもよい)とか、贅沢な生活ができるといったものでしかありません。
まあ、それを「自由」だと思うのなら、それが実現できるよう頑張ればいいとは思っています(笑)
このあたりについては、『「
デモクラシー」という虚構』に参照書き込みをリストアップしていますので、それを参照していただければ幸いです。
★ その他の参照書き込み
『「
政教分離」の意味 − 人類は進歩も退化もせず変化するのみ −』
『「寄生性」&「知的謀略」が国際金融家や国際商人の“危険因子” − トヨタなど日本の国際商人(輸出優良企業)も“危険因子”を持ちつつある −』
鳥の目と虫の目さんのような認識が徐々に広がり、世界支配層の「世界構造再編」とぶつかり合うようになるのが今そして今後の世界だと思っています。
最後は、鳥の目と虫の目さんのような認識が優位に立つと確信していますが、それまでの期間が長くなればなるほど嫌でおぞましい日々がだらだらと続くことになると思っていますので、少しでもその機関の短縮ができればと願っています。
世界支配層が「世界構造再編」に積極的に動き始めた現状では、それを保守するものではないとしても、国民経済主義(経済活動は国民全体がよりよい生活を実現するためにある)はそれに抗して多数派形成ができる“理念”だと考えています。
鳥の目と虫の目 さん:
逃げないこと。
物事を斜めから見ないこと。
自分の目の前にある条件をふまえて、やるべきことを、ひとつひとつきちんとやり遂げること。
ものごとに正面からぶつかることで、そのなかで、どこまでも自分自身を語ろうとすること。
こうしたことから下りてしまえば、どこまでも根無し草。今の時代の荒波に飲み込まれて、自分がなにものだかも分からなくなってしまうに違いない。
あっしらさん。貴重なご助言、どうも有り難うございます。