クレジットカードについてから続きます。
楽観派 さん:
ここまで議論が煮詰まってくると(要するに抽象的になってくると)少し議論がしんどくなってきます。
人間は本来自由ではないとのご意見ですが、私は自由に関してこう考えます。もし私が自分の自由を押し通そうとすれば、それは恐らくほかの人の自由を奪うことになるでしょう。
また何が自由なのかも人により大きく異なるでしょう。共産主義国家には共産主義を信じる自由があり、アメリカにはキリスト教を信じる自由があります。
さてエネルギーとか銀とかで私が言いたかったのは、通貨バスケットがあるように通貨の裏づけにおいてバスケット制度を採用してもかまわないように思えるからです。
この場合、バスケットの比率などは最初はまちまちでもよいので、人々の人気投票により収斂していくでしょう。
その時に通貨の発行主体をみんなが民主的で、自由を保障してくれて、情報公開がすすんでいると考えればその通貨はより長持ちするでしょう。
私が自由や平等が通貨の裏づけになると言ったのはそう言う意味です。また発行主体がエネルギーの安全供給を約束できればさらに長持ちするでしょう。
現代社会にはさまざまな座標軸がありますがエネルギーもその1つと考えます。
あんまりがちがちの議論にするとかえって深い議論ができないのでTVによる洗脳を少し取り上げます。
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時代劇はひどいとは思いませんか?江戸幕府は現在の日本となんら変わりのない官僚統治だったわけです。
たった1%の武士のさらに一握りの人が過酷な税金を国民に課して自分たちはノーパン・シャブシャブ、10万ワインの生活をおくっていたわけです。
黄門様が葵の印籠を出すとみなが平伏するなんてがちがちの規制社会だからできたのです。黄門様に逆らうと家族・親類全てが報復されるからみんなひれふすわけです。そんな時代劇を製作するTV会社(公共電波を使用した官僚支配のすすめ)はひどすぎる。
前の投稿で鴻池に少し触れましたが、鴻池善ェ門はもともと武士だったけどあえて自分の心のままリスク覚悟で商人となりベンチャービジネスをおこし江戸時代最大の資産家となるわけですが、江戸の官僚よりはこの生き方によっぽど共感します。
遠山の金さんと大坂高検の三井の違い?二人とも権威を乱用する天才だということです。江戸幕府が破綻したのはまさに黄門や金さんが”活躍”しすぎたからです。では平成日本における明治維新とは?
Re: 江戸期(時代劇)について 投稿者 あっしら 日時 2002 年 6 月 01 日
江戸期については、明治維新政府の自己正当化目的もあり今なお“悪”のイメージが濃いのですが、個人的にはそれほど悪いイメージは持っていません。
「兵農分離」・「自営農民育成」・「石高制」(限定貨幣経済)・「ムラの自存性」(領主のムラへの限定介入)などそれなりの評価ができます。
悪代官や悪徳商人と悪徳幹部武士という現実はなかったとは思いませんが、膨らまされたイメージ効果だと思っています。
(切り捨て御免などは、幕藩体制の自己崩壊につながるもので許容されるはずもありません)
武士階級も、自分たちの生活基盤を拡充するためでもあるとしても、治山治水・新田開発など公共事業に精を出していました。
幕府をはじめ諸藩も、富の蓄積は限定的で贅沢にうつつを抜かしたわけではありません。
幕府でさえ金欠が常態です。江戸に大火があれば、普請のためにお金を出していました。
江戸市民の生活基礎は幕府が築き、大店は自分のお金を突っ込んで立派な家屋敷にするという関係です。
(落語で出てくる家主と店子という話は明治以降の創作です)
欧米諸国への対抗力という動機は認めるにしても、明治維新後に導入された「国民皆兵」・「地租金納」・「中央集権制」は“価値観”的には評価しません。
黄門様や遠山の金さんは、現代人の願望が反映したものでしょう。
勧善懲悪を権威や個人的資質で実現することに、胸の支えが降りるという人も結構いるということでしょうね。
(法治主義と人治主義兼ね合いは難しい問題だと思っています)
ここのサイトを逍遥している人たちは違うと思いますが、ある割合の人は、「政治はまっとうな人間性を持ち能力も高い人が行ってくれればいい。
自分は政治に首を突っ込みたくはない」と考えていると思っています。
(法(理屈)ではなく、個別的事情を勘案した温情ある統治を望んでいる人もいるでしょう)
人任せで責任放棄だと言ってしまえばそうなりますが、政治はある意味で“必要悪”だと考えているので、その気持ちはよくわかります。
このような意味で、儒教のように、士太夫と庶民を区別し、士太夫に高い徳と思考力を求め、庶民はお気楽にという統治理論には魅かれるものがあります。
そうは言っても、民主制(選挙)を自己正当化の手段に使い自国破壊的な政策を進める政治家や民主制的洗礼も受けていない官僚が士太夫の気概もないまま低劣な政策立案や自己利益誘導を行っているのが現実ですから、国民がTVの世界でガス抜きすることで満足していれば、身ぐるみを剥がれてしまうと思っています。
“最後の決戦”には、多くの人がそれなりのかたちで参加して欲しいと思っています。
メディアの役割から言えば、水戸黄門や遠山の金さんで現実のウサを晴らしてもらって、現実には矛先を向けないでいてくれたら幸いということもあるでしょう。
あれこれと書いたのは、普遍的価値観とも主張されている近代的価値観を冷静に見直すことが現在求められているのではと思っているからです。
(レスがずれているのは、それゆえとご理解ください)
7/7/12
近代の一つ前の時代を考える意義に続きます。

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