近代の一つ前の時代を考える意義から続きます。
● 自由について
人は本源的に自由ではないというのは、誕生から生存維持まで、自己以外の他者(自然)に依存しているという意味です。
死の選択は、自由度が高いものだと思っています。
そうでありながら、欲求とか、気持ちいいとか、楽しいといった行動動機や価値判断は、個人的自由の領域だと考えられがちです。
しかし、腹が減ったから食いたいという欲求やセックスをしたいという欲求も、冷静に考えれば、“社会規制”的なものです。
腹が減ったという“不満”は生物的感覚ですが、食いたいという欲求は、なんからの食イメージを伴うものですから、意識していようがいまいが歴史的社会的に規制されたものになります。
(どういうセックスをしたいのか、どういうセックスに気持ちよさを感じるかも、極めて個人的なものと思われがちですが、強い歴史的社会的規制を受けたものです)
人=個人は、他の動物に較べてひと(通常親)からの生存的庇護を長く受け、その過程で、他者との関係性や言語=概念=思考=価値判断の基礎などを修得します。
その基礎をベースに、学校・メディア・職場などでの活動を通じて、それらの変容を続けていきます。
ここでは、人は、生物的には個体から始まるが、人的には他者との関係性から個を形成(意識)するものということにとどめます。
このような話を持ち出したのは、“近代社会”が、このような認識を人々にあまりさせないような仕組みで成り立っていると考えているからです。
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Re: 自由について 投稿者 あっしら 日時 2002 年 6 月 01 日
結論的に言えば、全面的な貨幣経済が、個人が自由であると思える(信じられる)現実意識を支えているということです。
お金があれば、食いたいものを食べ、欲しいものを手に入れ、行きたい場所に行け、心地いいセックスや好ましい相手を手に入れる?ことさえ可能だという現実が、「人は自由である」という錯覚を支えていると考えています。
この意識は、平均的な所得水準が高い「先進国」でいっそう顕著なものになっていると思っています。
様々な欲求実現に力を発揮する貨幣と個人が結びつくことで、個人が自由であると信じることを許容する世界が出現します。
貨幣と商品(サービス)の関係性が社会生活の全面を覆うことで、商品(サービス)に注ぎ込まれた人々の活動力が見えにくくなっています。
さらに言えば、商品(サービス)を供給する側も、その目的が貨幣を稼ぐことなので、いっそうそのような意識状況を深めます。
“近代社会”は、「貨幣が神となった世界」と言えるのかも知れません。
貨幣は“全能の神”の分身ですから、少ない量であればそれなりの御利益しか享受できませんが、膨大な量の分身を手に入れれば、それこそ“全能の神”を手に入れたと思える御利益を享受できます。
ほとんどの活動が“全能の神”の分身である貨幣を手に入れる目的になってしまったのが“近代社会”です。
そして、ほとんどの人は、それなりの御利益しか享受できない貨幣を手に入れられるだけです。
(そういう現実は、能力不足・努力不足・自己責任の結果として甘受するような価値観が育まれています)
ほとんどの人が享受しているような生活条件であれば、近代収奪システムが築き上げた生産力の“おかげ”で、週に3日も働ければ得られるような条件が生まれていると考えています。
これは誰もが高級車を持ち贅沢ができるという意味ではありません。自然的存在である人は生存においても自由ではなく他の自然から制約を受けているのですから、その制約を免れることはできません。
しかし、貨幣を稼ぐためにもがき苦しむという日々からは解放され、他者との関係性も現在よりは心地よいものになり、非生産的活動(今風に言えばお金を稼がない行為)を楽しむ時間も多く持てるようになります。
「世界同時大不況」の現出により、そのような価値観の現実化を目指す勢力とこれまでの強欲者の収奪システムを維持しようとする勢力の熾烈なせめぎ合いが始まると考えています。
(人の意識=価値観はそれほど変わりやすいものではなく、目に見えないものより、それほど良いとは思わないものでも目に見えるものに信を置きたくなるものですから、強欲者の側が一時的に勝利すると思っています)
Re: 自由について再考 投稿者 あっしら 日時 2002 年 6 月 01 日
>世界のさまざまな人々の間に、”こんなときに自由だと思う”という共通潜在意識がすでにあると考えます。
具体的には、どんなときが自由だと思うことでしょうか?
これまでのレスで書いたことは、自由という抽象的な概念をことさら使わなくても多くの人がイメージしている自由は別の表現で説明できるという思いに拠っています。
そして、根源的な自由はないということから出発したほうが、イメージされている自由の実現も可能だと考えています。
自由ではないから、自分(人)以外の自然にどう働きかけるのか、人と人の関係性をどう律するのかという問題が真剣に考察されるようになると思っています。
他者(権力機構を含む)にいわれなく身体を拘束されたくない、生存条件が満たされない状況には置かれたくない、心地よい生活をしたいなどをどう実現するかを考えるとき、自由を掲げる必要はなく、根源的には人は自由ではないということから始めたほうがまともな策が生まれるのではないかという問いかけです。
>それは近代化の課程ですでに意識に刷り込まれたものであり、そうした自由の概念は十分地面に足がついているのでは?
そう思っているからこそ、反意語的に、「人は根源的に自由ではない」という理屈を持ち出しているのです。
端的に言えば、近代の自由概念は、多くの人がそこそこの条件でも生存でき、それが将来的に維持できる自然条件を維持し続けるためには経済活動に対して規制が必要であることをはねのけようとするものとして持ち込まれた背景もあるからです。
>もし他者や環境に依存しない自由を求めるならそれは”涅槃”でしかありえないでしょう。涅槃というのは全てを超克しより高い論理レベルにいたることですからそもそも議論の対象となり得ません。バートランド・ラッセルが提唱した階層理論です。プラグマティックな自由の定義が必要なのでは?
自由を求める必要性はないと考えています。具体的な何かを求めればいいことだと思っています。
自由という抽象的な概念から離れて、プラグマティックな要求(欲求)を論議すればいいと考えています。
※ 一応、西欧で自由という概念が普及した歴史的・宗教的・政治的・経済史的な背景は理解しているつもりです。
楽観派 さん:
ぼくの場合、働いて給料をもらうようになり、生活費を除いた分を自分の好きなようとに使えることを実感したとき自分は新しい自由を手に入れたと思いました。
フランス革命のスローガンは「自由。平等、博愛」だったわけですが、こうした”美しい言葉”は人々の心に訴える力を持ちます。もし海外渡航の自由の代わりに、隣国ベルギーとの間での検問手続きを簡素化せよでは訴求力が欠けると思います。
もちろんそれは為政者側の発想なのですが、実はほとんどの人もそうした高邁な理念で説明されたほうがかえって納得する傾向があります。
われわれが本当にそれが自分にとって必要な自由なのかを考えるようになれば、為政者の間になんらかの妥協点が生まれると考えます。例えあいまいであっても理念は必要と考えます。”人はパンのみに生きるにあらず”金が人類を魅了するのと同様にそうした理念も人類を魅了しつづけると考えます。最近、ヨーロッパで人気の出てきた幸福の経済学もまた、富の極大化を否定し、経済活動の目的は幸せの極大化であると主張しており、個人的に大いに共感を覚えます。
Re: 自由からは少し離れて 投稿者 あっしら 日時 2002 年 6 月 04 日
自由に関する哲学的・神学的論議の深みに入るのは避けたいと思っていますので、雑感風なレスにとどめます。
「自由・平等・博愛」というスローガンにはほとんど魅力を感じませんが、それを好ましいものと考えているある割合の人たちが抱いているイメージについては共感できるものがあると思っています。
語句(ワード)については、抽象的なものであればあるほど、できるだけそれ自体に価値を付着させないよう務めています。その語句の概念説明を受けて自分なりに理解した後で、その語句の意味を考え、価値判断をしたいと考えています。
また、個々人の意識によって評価が異なる語句は、できるだけ具体化した表現で発したいと思っています。
そのような意味で、「幸福の経済学」とか「幸せの極大化」といった提示の仕方には躊躇してしまいます。
(おかしな言い方ですが、現実の経済学に対するアンチテーゼとして気持ちはわかりますが)
本当かでっち上げかはわかりませんが、「構造改革」というスローガンと「数年間の痛みに耐える」・「不良債権処理」・「規制緩和」というサブスローガンを語るのみで具体的な政策をほとんど示さなかった小泉首相が80%以上の支持率を獲得した現実を目の当たりにしたことでそのような意識をより強く持つようになりました。
最近、意識から離れないのは「ハメルンの笛吹き男」の話です。
心地よく美しい音色(スローガン)につられて破滅への道を喜々として歩み続けている現実世界がそれにオーバーラップしてしまいます。
「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉よりは、「衣食足りて礼節を知る」という言葉のほうが好きです。
(礼節を重んじているわけではありませんが...価値の重層性を認識し、その序列の付け方が的を得ていると思えるので)
理念や論理は重要なものだと思っています。
理念がない論理は、受け止めた人もあまり魅力を感じず、論理が乏しい理念は、人を非合理的行動に誘い込みます。
7/7/12

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