「
市場を司るものは神になる」のつづき です。
【バルタン星人さん】
「さすがにマルクスも当時のイギリスや世界を見ていたわけだしそこまで牧歌的だったかは保留しますが
「生産共同組合の連合」と言っていますし、自然的条件も含めてやっぱり差異は残る、社会的必要労働に平準化されてもどうしても「余剰」が残る、その余剰がまさに自然=人間だという意識がマルクスにあったんじゃないか。あと、なにせポスト・ヘーゲルの人だしサン・シモン主義者の設計主義も当然知っていたし、そういうのではダメだというのは判っていたと思います。「人間の歴史を自然史的過程としてとらえる」と言っているのは吉本隆明が言っているような「科学と取り扱うという立場」ではなく、自然成長性にまかせるというかドゥルーズ=ガタリ言う「機械」のイメージではないかと勝手に解釈しています。ご指摘の件ですが、逆に言えば近代概念で考えないとマルクスをいまさら読む意味などないわけです。(そこまでして読む必要があるか と言われると...とりあえず「脱・構築」と言うしかないですが)」
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貨幣や共同体についてあれこれ
投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 09 日
自然条件の差異もあるし、どんな生存様式であっても「余剰」もあれば「不足」もあるものです。
「余剰」がほんとうに余剰であるのなら、腐敗するものは腐敗し、溶かしたり変容させることで再利用することもできるというもので、「不足」がほんとうに不足なら、我慢しなければならない人が出たり、深刻な食糧不足であれば餓死者も出るというものです。
これは、貨幣経済であろうが、自給自足経済であろうが、物々交換経済であろうが普遍的なことです。
ですから、この部分で説明されていることが、貨幣を媒介とした交換の“普遍性”とどう関わるかがイマイチ不明です。
貨幣を媒介とした交換であれば、「余剰」をどううまく調整できるとお考えですか?
バルタン星人さんに今一度考えていただきたいのは、現在の「近代経済システム」が本当に貨幣経済と言えるのかという問題です。
金本位制のみならず純然たる貨幣に対してもそう言えるのですが、ペーパーマネーを超えて数値化された貨幣単位の増減で交換もできる現在の貨幣経済が、果たして貨幣経済なのかという問いです。
雑駁に言えば、「貨幣経済だ」と多くの識者が錯誤しているだけで、ほんとうはある人たちの“人為的采配経済”ではないかということです。
貨幣に存在性はなく、概念の記号化として、すなわち、生き物として欲を持つ人々をある舞台装置の上で踊らせるための仕掛けとしてあるだけではないかということです。
(法や宗教と同等の観念的存在ではないかという提起です)
ある人たちが、“人為的采配経済”として悟られないために、過去の遺物となった貨幣が今でも生きているかのように見せているだけという見方です。
それは、貨幣の本源的な機能の一つである価値尺度機能や価値保存性が喪失している現実を手掛かりに考えれば見えてくると思っています。
【バルタン星人さん】
「マルクスも「人間の解剖は猿の解剖に役立つ」とかいっています。
それまでは英雄、豪傑の物語やポランニーの「社会に埋め込まれた経済」であったわけですから。
しかしそれは「関係の論理」であって例えば交換の現象形態まで全て説き起こせる「生成の論理」ではないわけです。つまりデカルトの分析的方法ですよね。絶え間なく細分化(数値化)してモジュールの動作原理は説明できるが、それを寄せ集めても全体の有機的連関は判らない。フッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で言っている「危機」とはそういうことなんじゃないかと。」
経済学の成立基礎に関するものですが、バルタン星人さんの「それを寄せ集めても全体の有機的連関は判らない」は、認識が転倒しているように思われます。
「人間の解剖」は、有機的連関存在である人の動作原理を少しでも知ろうという営為です。
つまり、解剖は連関的部分の動作原理を概念思考として知り得るのみで、全体の有機的連関は生身の人を見てわかろうとするしかありません。
それでも、解剖して知った部分の動作原理を知っていることで、生身の人が示す諸事象(動き方や不全状態)の原因を推測することができます。
マルクスは、有機的連関活動の総和としてある国民経済を対象に、それを「資本論」というかたちで解剖して見せたわけです。
「資本論」に限らず経済学の要点は、個々の経済主体(企業)がバラバラの存在ではなく、有機的連関性のなかにあることを見抜き、その有機的連関活動がどのような動作原理に規定されているかを説明することです。
言いたいことは、モジュールの動作原理は説明しそれを寄せ集めても全体の有機的連関は判らないが、全体が有機的連関に位置付けられているのら、モジュールの動作不全が全体の有機的連関活動にどのような影響を与えるかは説明できるということです。
それがうまく説明できないとしたら、モジュールの動作原理をよく知らないか誤って知っているか、解剖の仕方が悪かったためにモジュールの抽出に失敗しているか、有機的連関性の全体を誤って見ているかということになります。
(マルクス「資本論」のみならず、すべての経済学が、それらすべてにおいて誤りを犯しているか、わざと隠匿していると見ています)
「社会に埋め込まれた経済」だから経済学が成立しないのではなく、埋め込まれていようが露出していようが、経済活動(生存活動)が個々独立したバラバラのものであれば、経済学は無意味であると同時に成立もしないのです。(せいぜいが経済史的考察になる)
【バルタン星人さん】
「岩井の話に少し触れると、あっしらさんが慧眼にも見破ったように、「資本論」の価値形態論と交換過程論の循環を確信犯的に「労働価値」を抜くことによって理論的に完結させようとしたわけです。商品の体系が貨幣を支え、貨幣が商品の体系を支える「宙吊り構造」という仮象を導入して貨幣=金(きん)=「金の発掘に要する社会的労働」というマルクスの実体論を葬り去ろうということです。「超歴史的な貨幣表象」というグライダーは動力なしに滑空できるわけですが、しかし
グライダーを引いて浮力をつける「最初の一撃」は始源の奇跡になるわけで柄谷が「経済学者としてしゃべっていないだろう」というのはそういうことです。(これについては新田滋が『恐慌と秩序』でほぼ完璧な「批判」を展開しています、どうでもいい事ですが。)」
「貨幣=金(きん)=「金の発掘に要する社会的労働」というマルクスの実体論」は、それが利得にとって邪魔だと判断した“彼ら”によって、ほんとうに葬り去られました(笑)
それでも、リカードや「資本論」の「労働価値」は葬り去られていません。
社会的分業(有機的連関活動)の高密度化は、貨幣を貨幣ならざるもので置き換えることを許しても、社会的分業である限り「労働価値」を捨て去ることを許さないのです。
【バルタン星人さん】
「しかし逆に言えば贈与−互酬が成立する範囲が「共同体」なのではないでしょうか?共同体を集合概念で考えれば部落、講、無尽とか様々なクラスがありメンバーは重なったり、ずれていたりするでしょうし、空間的にしきられた実体的なものではないのではと思います。
西原理恵子の「毎日かあさん」じゃないけど「子どもが寝静まった夜中に蟹を貪り食う」贈与が成立する「家族」の中で抜け駆けと経済主体としての「市民」が集まる社会−市場でのエンロンみたいな抜け駆けとは同列ではないと思うわけです。社会、市場というのは共同体と共同体の間にあるものだと思っていますから。(サイバラは子どもに「オカシャン、ずるい」とか言われも「カニはわたしのもの、ミソは私のもの」と贈与しないのですが、これは「私有」というより親の裁量の範囲ですから。)」
まず、「市民」は、近代経済システムにおける経済主体ではありません。その市民が自営業者であれば経済主体と言えますが、そうでなければ、「所有されない奴隷」であり、消費主体としてのみ経済の連関に位置付けられるものです。
近代経済システムにおける経済主体は、資本の生産(増殖)活動を主体的に行なっている組織(経営者)や個人です。
労働者が、労働を喪失した生存様式が「近代」です。労働をしない人は経済主体とは言えません。(国家もその意味でいくら財政支出をしようとも経済主体ではありません)
贈与−互酬が成立する範囲が「共同体」だと思っています。
「共同体」は、概念的には地球という空間によって最大規模の仕切りができます。それは、概念的には地球規模で贈与−互酬が成立することを意味します。
それが不可能でないことは、“彼ら”が、500年以上の年月をかけたグローバリズムがいよいよ終局に入ったことを手掛かりに推論できます。
“彼ら”は、地球規模で抹殺をする一方で交換のみならず贈与−互酬も行わせています。
「近代」は、共同体性を家族(極端に言えば個人)レベルにまで細分化しました。
それを基礎にして、“彼ら”は、自分たちが差配できる共同体性を地球規模まで拡大したのです。