献体と言われたのに、ほとんど全身の皮まで剥がれた
ちゃんと説明してくれてたら、私は、断れたかも知れない
大阪府立千里救命救急センター事件(1993年)
臓器提供者の母親(83歳)の訴え
「家族の強い希望で臓器提供」報道は、まったくのウソ
この事件は臓器移植法(1997年・平成9年)が成立する4年前の、1993年(平成5年)10月に起こりました。
ドナー(臓器提供者)になった58歳の男性は、喘息の重責発作のために自宅で倒れて、救急車で大阪府立千里救命救急センターに運ばれました。心臓停止していましたが、心臓マッサージによって蘇生されたにもかかわらず、その後、「脳死」を宣告され「家族の強い希望で」と大阪府立千里救命救急センターから記者会見で発表されて(当時の新聞にも大きな見出して掲載)臓器が摘出されました。
しかし、実態は違っていました。家族から「臓器提供の強い要望」も、ありませんでした。臓器移植法ができる前に、こんなひどい事が起こっていたのです。私たちは、この患者さんへのきちんとした治療がなされたのか、大きな疑問を持ちました。そして、大阪弁護士会に人権救済申し立てを行い、実態の調査を託しました。しかし、この人の命を守るためにいかなる治療がなされたかは、明らかにはされませんでした。
このウェブページをご覧の皆さん、移植が行われるには必ず誰かが亡くなっているのです。確かにどんなに手を尽くしても、人の死を避けられるものではないでしょう。でも、その人のために全力を注いでくれるという暗黙の期待が、どんな町中の医療にもあるはずです。第3次救急医療施設に担ぎ込まれる端から救命を諦められたら、もっと多くの悲しい事件が起こるのではないでしょうか。
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「脳死」臓器移植に反対する市民の会の記事からです。
以下の文章は、ドナーとなられた患者さんのお母さんが、「脳死」・臓器移植に反対する関西市民の会へ、電話で訴えられた内容です。今も大阪府立千里救命救急センターの所長はお母さんに会うことすらされていません。この実態を知ってください。( )内は文脈がわかるように、電話応対した橋岡が付け加えました。
献体と言われたのに、ほとんど全身の皮まで剥がれた
(1994年・平成6年10月の電話の一部)・・・略・・・息子が亡くなり寝台車で帰って来たときに、目から血が流れてました。そして、着物の合わせが縫うてありました。近所の人が息子の死顔を見て「おばあさん、これは、息子さんの顔やないよ。」と言う程に変わり果てておりました。
いつか(コーディネーターの)湯浅さんが来たら、いったい何々を取ったんか、聞いてみようと思てました。そしたら、心臓の弁二つ、腎臓二つ、耳の骨、肝臓、角膜二つ、葉書大36枚分の皮やて、言いはりました。まさか、目や皮までとは夢とも思わず、それやったらほとんど全身の皮、まるで因幡の白ウサギやと、人間のすることやないと思います。
湯浅さんが家に来はるたびに、「いいことしたんやでーおばあさん」と。でもね、息子の臓器をもろた人が80まで生きられるんやろうかと思います。(臓器提供の承諾書を書かされたとき、主治医の)T先生はペンペンと丸をしはった(丸されたのは肝臓、腎臓、角膜、耳小骨、心臓弁、皮膚、血管)。大きな家の息子やったら、取ったでしょうかねえ。お風呂屋へ行っても、「あのおばあさんは、こわい人や、息子さんの臓器をやって5,000万ももろたんやで」と陰口をたたかれます。お金は、誰からももろてません。でも、誰も信じてくれません。
先生はあれだけ、「脳死や脳死や」と言わはったのに死亡診断書には喘息性蓄積(喘息の重責発作)と書いてはったんです。・・・略・・・(付き添いをしていた)娘から「お母ちゃん、どないしょう、献体やいうてはる。どう言うたらいい?」と電話があり、その時、戦争で今のハイラル(ロシアの際にある)から4人の子を背負たろうて、生きるか死ぬかの思いで日本に逃げ帰った時の事が頭をぐるぐるまわりました。ロシアの兵隊に殺される人も間近に見ました。
あの地獄のような体験が重なって、息子がどうせ死ぬんやったら、もうええやろう・・・・・・と、人の役に立つならと(献体の求めに対して)「どないなとしておくなはれ」と言うたんです。それが、全身になってしもた。 (この気持ちを)どこへぶつけたらよいのか、日に日に憎悪が増してくる。・・・略・・・死を大切にしない社会は、生も大切にしない。
ちゃんと説明してくれてたら、私は、断れたかも知れない
(1996年・平成8年1月の電話の一部)・・・略・・・ずっと前に太田先生(大阪府千里救命センター所長)から電話がありました。でも「おばあさん、今はね、おばあさんに会うことはできない。新聞やテレビが騒いでるからね。落ち着いたら会える時もあるから」と言うと切れてしまい、お礼の言葉もありませんでした。いまだに何も言うては来ません。臓器提供は私から言い出したんと違います。太田先生は、いっぺんそのことについて説明してほしいと思てます。
(1996年・平成8年6月11日、臓器移植法制定にあたっての国会議員の勉強会に発言を依頼された電話の一部)・・・略・・・平成5年12月15日に書いた私の手紙を聞いて下さい。『今回の臓器移植法案は、息子のそれを無視してしまった。生も死も一人一人の人間の所有物である。・・・略・・・』。これをハンドバックに入れ、寂しいときは必ず見てます。太田先生は未だに一度も会ってくれないけど、私の命のあるうちにただ一言だけでいい、たくさん臓器を取らせてもらってありがとうございました、と言うてほしい。
(承諾書にサインするとき)なんで、「目も皮も腎臓も肝臓も心臓の弁も、お母さんみなもらいますよ」と説明してくれはれへんかったんやろ。そしたら、私は、断われたかも知れません。私は足が悪うて毎日リハビリに行ってます。体が辛くて東京へはとてもよう行きません。国会議員の皆さん、この年寄りの話をくみ取って下さい
6/6/2

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