慢性的?「脳死」 の続編です。
「脳の機能の中でも、考える働きや自己意識や記憶が大事である」と考えている人は、「脳 の不可逆的機能停止」と言うと「昏睡患者は脳死と同じなんだ」という考えになりかねません。
いわゆる植物状態であっても、これはもう死体同然であるという方向につながります。
もっと極端な考えになると「IQ50以下だったらイルカ以下だから人 間じゃない。イルカを助けたほうがいい。」という考えを持つ人々もいます。
脳の機能が「考える働きである、大脳機能である」と一面的に考えると、こうして知的障害者や精神障害者の生存権を否定する方向へとつながっていくのです。
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前編同様「脳死」・臓器移植を問う市民れんぞく講座2001/12/ 8より朝日 俊男氏(医療文化研究センター) の講演からの抜粋です。
脳機能が戻るか戻らないか以前に「脳の働きとは何か。 何を脳機能とみなすか。」という考え方や価値観によって、「脳の機能が無くなった状態とは何か。」という基準も変わってくるという点があります。
「脳の働きは何か。」は生物学や医学の学問で決まるのではなく、その社会の価値観で実は決まってい ます。
ということがわかる理由は、「脳死」判定の基準が国によってバラバラだからです。
少なくとも理念としての生物学や医学は、皮膚の色の違いや文化の違いがあっ たとしてもそう大きく、違っている訳ではありません。
それなのに「脳死」が国によ って違うのは、その社会の価値観の中で脳の働きがどのよう考えられているか、この面から「脳死」を見ていかないと理解できないわけです。
互いにつじつまの合わない「脳死」説
脳の働き、機能とは何でしょうか。
一番極端な定義では中医学(伝統的な中国の医学)は「頭の中には何かグチャグチャな灰色の物が入っていたから、これは泥の球= 泥球(でいきゅう)である。」と言われ、どうでもよいものであると思われていまし た。
近代医学の解剖学では存在しないとされている経絡(けいらく=人体の循環・反応系統)や五焦(ごしょう=五臓六腑の一つだが今日の解剖学でのどの臓器に当たるかはわから ない)は大事だけれども、逆に脳は泥の塊だから働きなんて無いと考えられていまし た。
そういう時代では「脳死」なんて考えが存在するはずもありません。
近代医学で受け入れられている脳機能にも色んな考え方があります。
アメリカを中心とした一部では「脳機能とは実質的に大脳皮質の働きである。大脳皮質の働きが一番大事である理由は、ものを考えるとか自己意識とか記憶である」と信じられています。
これも無茶苦茶な理屈で、大脳皮質だけ切り取ったらその脳に自己意識があるのかというと、SFではないので、それこそ泥の塊みたいになってしまいます。
「脳の機能の中でも、考える働きや自己意識や記憶が大事である」と考えている人は、「脳 の不可逆的機能停止」と言うと「昏睡患者は脳死と同じなんだ」という考えになりかねません。
いわゆる植物状態であっても、これはもう死体同然であるという方向につながります。
もっと極端な考えになると「IQ50以下だったらイルカ以下だから人 間じゃない。イルカを助けたほうがいい。」という考えを持つ人々もいます。
脳の機能が「考える働きである、大脳機能である」と一面的に考えると、こうして知的障害者や精神障害者の生存権を否定する方向へとつながっていくのです。
イギリスを中心とする一部の国々では、脳幹が中枢であると考えています。
これは大脳とは全く異なる脳の真ん中あたりの部分です。同じ英語圏でもアメリカとイギリ スでこんなに違っています。
血圧を維持したり呼吸をさせたりする生命維持機能の中心がこの脳幹にあるのですが、この脳幹の働きこそが脳の機能であるという考えの人たちがいるのです。
「脳幹が大脳に信号を送って意識を醒まさせたり、生命を維持している」という考えです。
この場合だと極端にいえば、「大脳が機能していても、脳 幹が働きを止めたら、生命を維持することができないから、もう『脳死』なんだ。」 という考え方になります。
また違う考え方では「知能検査は知能だけ、反射検査は反射だけというように、検査法によって機能の見え方がひとつひとつ違う。医学的に未知の部分が多いので、全脳細胞の壊死まで確認しなければいけない。脳に栄養や酸素を運ぶ血流がなくなっていることまで検査して脳死とする。」という考え方もあります。
日本は比較的、この慎重な考え方に近い医師が多いでしょう。
以上のように時代別、国別の脳機能の定義の違いから見えてくる事は何でしょうか?
それは、「脳死」とは脳機能がなくなった状態であるという点では「脳死」の定義 はだいたい一致していますが、いざ「脳機能とは何か」という点を細かく検討してい くとまったくつじつまが合わなくなってしまうと言うことです。
さらに言えば、どんな働きを脳機能として考えるかと言うことと、その特定の脳機能がなくなった状態を 人間の死とみなすことが出来るかどうかはまた別問題です。
一番厳しい「脳死」定義=全脳細胞の壊死でも、脳機能以外の働きは正常に近いこともあります。
男性であれば、精子を提供者すれば父親になれますし、女性であれば 出産することもできます。
10数年、心停止せず生きる場合もあります。
脳機能とされている機能が無くても、人間が社会で行っている活動が色々できるのです。
それなのに何故、脳だけ「脳死」だけ、肝硬変の末期とか末期ガンのように、臨死状態や末期状態の一種とせずに、「死体として扱いましょう。」となったのか、という疑問が湧いてきます。
もちろん臓器移植という技術が登場したというのが、非常に大きな理由です。
人工呼吸器が「脳死」を生み出したわけではない
さて、臓器移植に触れる前に、一般によく言われる「脳死は、人工呼吸器の開発によって出現した」という誤解を解いておく必要があります。
歴史的な流れを見ると分かるのですが、人工呼吸器の原型である「鉄の肺」という装置は1928年に開発さ れ、人工呼吸器とほとんど同じように使われていました。
第二次世界大戦頃には今日の人工呼吸器と同じ構造の装置が、大きな病院ではすでに使用されていました。
ですから、人工呼吸器が開発されたのは70年以上前からということになります。
これに 対して、今日でいう「脳死」という状態が生まれたのは1968年にハーバード大学で、「不可逆性昏睡」として定義されたのが最初です。
これは南アフリカで初の心臓移植が行われた半年後でした。
人工呼吸器で生き延びていた末期状態の脳障害患者は 第二次世界大戦頃からいたはずですが、その人々が臓器提供資源として利用する技術ができた時に「これは死体にしましょう。」と「脳死」概念が発明されたことが、この歴史的経過にはあらわれています。
これまで説明しましたように、アメリカの「大脳皮質死」やイギリスを中心とする 「脳幹死」さらに「全脳細胞死」と、色んな「脳死」定義や概念があります。
こんどは、その違いではなく、共通点の方に目を向けてみましょう。
定義はバラバラですが 、価値観という面では、「『脳死』を人間の死の一種として認めることが必要だ」と いう点では、どれも共通しています。
つまり、その患者さんを診断して治療するため に役立つ概念ではなく、「脳死」という考え方を持ち込むことで、その人を権利のある生きた人間、動きに何か意味があるかも知れない、痛みを感じるかも知れない人間ではなくて、「もはや生きた人間ではないが、有効利用することが必要な資源・死体 ・モノとして考える」ための手段となる概念なのです。
手段としての「脳死」
「脳死」体と呼ぶことによって一部の末期患者(の臓器・組織を)を有効利用しよ うという考えからは次のことが予測できます。
つまり「ある種の末期患者全般が臓器提供できる。その身体を利用できる。」と見なされた場合には、脳機能障害の程度とは関係なく「脳死」状態と同様に扱われることがあるのではないでしょうか。
実際に 、「脳死」判定の厳しい基準を満たさなくても「臨床的脳死状態に近い状態になっているから、脳以外の他の臓器を守るために(救命には有害な)処置を行って、身体を水浸し状態にしてもいい。」という方向性があらわれています。
脳障害患者への救命努力がなおざりにされて、判断基準がどんどん甘く、前倒しになっていく傾向が現れ ています。
今日は、脳機能についてのお話を主としてきたのですが、結局、現実に行われている ことは、残念ながら、脳の機能を見て「脳死」を決めるのではなく、臓器提供のため 「人体を有効利用」するために「脳死」を決めるということなのです。
アメリカでは臓器提供を自発的に同意した脳死状態になっていない臨死患者に対して、生前から本人に対する治療ではなく臓器を保存する処置を行いつつ「死ぬ」のを待って臓器摘出をするピッツバーグプロトコルが行われています。
日本でもほぼ同様のことが一部で行われているとも言われます。
結局、「脳死」判定は儀式みたいなものに過ぎないのでしょうか。
これまでは「その人の脳機能がどれだけ残っているかを 調べよう」という「脳死」議論が行われてきたのですが、それ以前の問題として、「臓器提供に持ってゆく」ために「脳死」概念が登場したという「脳死」問題の本質が はっきりして来たのが今の状況なのです。
臓器移植の思想的背景にある人間機械論
最後になりますが、臓器移植の思想的背景に関して少し触れておきたいと思います 。
臓器移植の対象になる病気にかかる人は、すべての病人の数から見れば、ほんの一握りです。
「心臓病の人」といっても、高血圧の人から不整脈の人、心筋梗塞の人な ど、重い病気から軽いものまでたくさんあります。
そのなかで心臓移植の対象になる 人はごく一部であるということはすぐにわかることです。
これほど現実に行われる数が少ない稀な病気とその治療法が、人々の注目を集めているのかということを考えると「脳死」を生み出した今の医学思想の土壌や背景が見えてきます。
心臓移植の国内適応患者数は、ざっとした計算でも数万人とされています。
脳死判定され臓器提供する側は数千人〜数百人と考えられていますので、臓器移植は、通常の医療行為として「希望すればできる」ようにはとうていなりません。
ですから、臓器不足のために、「臨死患者であっても臓器提供させてしまえ」とか「よその貧しい国に行って買ってこよう」という問題が出てくることは誰でも冷静に考えればわかることです。
そういう問題があるにもかかわらず臓器移植が「医学の進歩の象徴」のように非常にマスメディア受けするのは、人間を機械のようにあつかってその部品を取り替えることができるという近代医学の「人間機械論」という考え方があります。
コンピュー タでいうCPU(中央演算装置)に当たる脳がだめになったら機械ごと取り替えなき ゃだめだけれども、周辺機器だったら取り替えればいいと言うことです。
このように 、人間を機械として見る考え方だと、「脳死」も臓器移植も非常に説明しやすくなる 。
ただし、覚えておかないといけない点は、説明しやすいからといってもそういう機械という比喩が正確な真実とは限らないという点です。
でも、「脳死」臓器移植は、 実際に行われている数としてはものすごく少ないけれども、部品を交換する発想からすると理屈として分かり易いからマスメディアで脚光を浴びるという面があると思い ます。
いろんな病気や治療法がある中で、医療全体における比重と似合わないほどの脚光を移植医療が集めると、(医療と社会の)バランスが失われた状態になってきて いるのが今の状態ではないでしょうか。
米国は「臓器移植先進国」です。
しかし、臓器移植には予算をつぎ込んでいても、国民全体の医療保険が存在せず、貧しい人は最低限の医療すら受けることがままならない状態です。
そのために、医療費は巨大な予 算を使っていても、全般的な健康水準が改善されるのではなく、特定の病気にだけ研究が集中して非常にいびつになっています。
繰り返しますが、「人間機械論」でもどんな考え方でも、一つの考え方だけで医学をすすめていくことによって、今、問題がでてきているのです。
6/6/9

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