冬型の気圧配置が出現し、みぞれも降った。
遠山の頂の白さも、下に降りている。
堀之内新道島から湯之谷の仮設に移っている知人の話は、「積もったよ」である。
竹田の上からの眺望では、白い山を遠望できるのであろうが、今日はまだ出かけることができないが、収穫のすんだ棚田のたたずまいが目に浮かぶ。
(
10.23地震の翌24日の航空写真 )

(
写真 クリックして下さい)
今日の社会は大きな田んぼ、大きな農業を求めている。
社会がと言うよりも、行政が目指す方向がそうなだけなのかもしれない。
実際この地域に立って景観をたしかめると、大きな田んぼ、大きな稲作は
ないものねだりである。有るものを生かす、あるものの価値を見出す。それが否定されるから、地震を契機に一気に、
木沢集落から離村がすすむ。
牛ヶ首集落が分解してしまった。
ないものねだりの社会がこの地域の人たちを苦しめ、ふるさとを捨てさせようとしている。
先日の東京狛江市の市民まつり出展には、
荒谷の元気なお母さんと一緒になった。荒谷は私の最寄から少しはなれているので、その事情をあまり知らない。それで、その方の元気な話しぶりは興味深く伺ってきた。
(
川口町地図模型)
荒谷は相川から花立峠の険阻をこえて、二十村郷に向かう山中の狭隘な谷添いのムラである。昭和52年には峠越えの難儀解消にトンネルが通じていた。
10.23地震は、震源に近いこの集落に大きな被害をもたらし、トンネルが通れなくなったと言う。
集落の人たちは皆で助け合いの態勢をすばやくつくり、お母さんたちは食べ物の確保に
ムラ中総出の協力で果したと言う。その後のムラの結論もすばやく、ムラから一時避難するために山越えの旧道を確保することであった。
仮設に移ってからの冬越にも、皆の協力態勢がくずれなかったことを
誇りとする語り口であった。
被災の緊急時には
どこの地域でも近隣互助の態勢はできていたと思う。
しかしその濃密さは、地域によって少しづつの違いはあったようである。
おそらく、その地域の日常がどんな形であったかが、この非常時には表れてくる。
被害の深刻さの度合いにもよっても、近隣互助のかたちは違ってくるであろうが、共同テントを張った地域と、銘々で車庫にもぐり込んだ地域では、地区の雰囲気は明らかに違う。
荒谷では被災から一年をへて、ようやく家に戻れるようになったのだと言うのだが、
まだ帰れない仲間もいる。そのことを気遣いながら、この冬は仮設から出たのだけれど、そこに留まる人たちと一緒になって仮設の雪堀をするのだそうである。
互助の気持ちを確かめ合った人たちの強い絆であろう。
そして、しきりと
相川や武道窪、そして貝ノ沢の人たちの世話になったのだと言っていた。

この地域、江戸時代には
相川村、武道窪村、そして荒谷村として独立していた。
江戸時代初期の村高で
相川村135石、武道窪村40石、
荒谷村6石余となって、川口組二十ヶ村では荒谷が
一番小さな村であった。江戸時代中期にはこの三ヶ村は組村をつくって、相川に共同の郷蔵を建てた。幕末には武道窪と荒谷は仲間となって寄合い蔵を設けた。このような歴史的経緯は、峠を隔てた荒谷村と相川村・武道窪村との絆を深めていたに違いなく、近代に入っても、武道窪と荒谷では選挙ときの協力関係、あるいは公民館行事とか川口祭りの参加など連帯が見えていた。
元気な荒谷のお母さんは、遠方からここに嫁してきた人であったが、荒谷村と近隣村との歴史的かかわりのことを知っていたのである。
「
嫁に来てから、爺ちゃんから聞いたのだ」と言うことであった。
ほとんどのムラで、もう江戸時代のムラの歴史を語り継いでいることは少ないのに、
荒谷ムラの継承は驚きである。
前掲の江戸時代初期、相川村での一軒の百姓石高では7.5石、荒谷村は1.2石であった。田んぼに頼らない地租石高で、荒谷村は小さなムラとなっていたが、田んぼだけに頼らないことの豊かさ、小さなことの豊かさがあったから、中世、近世、そして近現代とムラが続いてきたのである。そして地震被災から一年、人々はムラに戻ろうとしている。
互助の力を頼りにムラの再生を語る元気なお母さんであった。
小さなムラのこの元気、ムラの歴史を語り継いで来たからなのであろうかな。
あるいはムラが小さかったからこそ、
ムラを語り継いで、ムラの絆を深めることができていたのかな。
元気なお母さんの話を聞きながら、私の感じていたことです。
魚沼のコシヒカリを育てた風土も、小さなムラの風土です。
平場の大きな田んぼの風土が見捨てたコシヒカリを、魚沼の風土が育て続けたのです。
(
写真はクリックして下さい )

0