小正月には各地の集落に
「さいの神」がまつられる。さらには一ムラ一ヶ所でなく、
マキごとに、あるいは地区ごとにと無数の「さいの神」の火焼の煙が上がる。社殿とか石祠がなくとも、
日本に一番多くまつられる神様ではあるまいか。その習俗さいの神を論考するなど三郎次の分ではない。しかし誰にも「さいの神」にかかわった幼い日からの追憶は重ねつづけているのではあるまいか。
日本人が抱える郷土意識の原点に「さいの神」はあるものと思うのです。その追憶の想いを
今日的な意識の中に置き換えてみたい。
和南津には、本村のはずれにも さいの神 ≠ニ唱える地所があって、道祖神さまを祀っていたところらしい。
本村からはなれて、和南津トンネルを抜けたところの
八郎場集落にも道祖神さまが祀られていた。今日では国道17号が走るが、
江戸時代には主街道の三国往還街道から離れていたところである。
三国街道は川口宿から和南津渡船場、トビ坂峠(
この峠下を現在は国道和南津トンネルが抜けている)越えで堀之内に入っていた。この峠の頂上で、三国街道から離れて林のなか、河岸段丘の斜面の小道を下りると魚野川辺の小ムラが八郎場である。
この
ムラの入口に、小さなお地蔵さまと「さいの神」さまの石像がまつられている。
川口町には10数か所に「さいの神」あるいは道祖神としての石像物を確かめられる。
「さいの神」と道祖神はおおく習合して同じ習俗信仰となっている。また「
どうろくじん」とか「
どうらくじん」さまも同じ範疇の習俗と理解されている。明治初年生まれの祖父三郎次は、小正月さいの神には山の枝木を削って、目鼻口を描いて「どうろくじん」さまとして祀っていた。
八郎場では「さいの神」像にどんな感覚でかかわってきたのか、ムラの人に尋ねてもあまりハッキリとした覚えがないという。ただ地蔵さまをお参りするとき、おなじような感覚で手を合わせていたとか、お線香も供えていたとかで、仏さまのような感覚である。「さいの神」とか道祖神としての承知もなかったようである。お参りは地蔵さま縁日の8月23・24日のことよりも、
お墓参りから帰ったときにお地蔵参りをしながら、「さいの神」にも手を合わせた記憶のほうが濃くなっている。
八郎場の
「さいの神」はムラの入り口、つまりムラのはずれにあって、地蔵さまと同じ習俗信仰をうけている。お地蔵さまはごく通例的に「
ムラのはずれのお地蔵さま」との感覚であって、お寺さま境内のほかはあまりムラ中には見当たらない。
野田の地蔵さまはムラ中であるが、これはムラが広がっての形であって、地蔵さま建立の江戸時代には、そこはムラの端であったのである。

(八郎場の地蔵さま)
川口町の他の「さいの神」とか道祖神は必ずしもムラはずれとか、ムラの入口の道傍とかに限られないで、神社などの周辺にもみられるが、これは旧位置から変わったものであろう。牛ヶ首とか峠、和南津の「さいの神」道祖神は古くムラので出入口にあたると考えてよい位置である。
これら町内の「さいの神」あるいは道祖神さまの像をみて、八郎場のものだけは
女神と男神が並んで刻まれている。川口町ではここの一体だけであるが、よその各地の例ではそれほど珍しいものでなく、道祖神さまは女神男神が並ぶもので、
双体道祖神としてよく見かけられる。木を削った「どうろくじん」さまもお一人神でなく、お二人神の感覚が強い。
「さいの神」道祖神の習俗は、地蔵さまとか猿田彦神などいくつかの習俗信仰が複合して、各地に広まっているものとみられている。その習俗信仰の様子も複雑多岐で、一口には説けないものであるが、大まかに分けると次の二分が出来るであろう。
@ 集落のはずれの道傍にあって、
地区を守護する。つまり外来の邪悪なものを
遮る神、塞ぐ神。
A 生と死にかかわる信仰、男女和合とか縁結び・夫婦円満につながる習俗信仰。
八郎場の「さいの神」はその位置とか、女神男神の神像から、典型的に上記@Aの習俗信仰を汲みとることができる。
(つづく)
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