江戸時代の初期は全国的に新田開発の時代とされている。
中世戦乱の時代をぬけて、社会状況の安定のなかで、発展のエネルギーが新田開発に向けられたからと説かれています。
川口町地域のばあいはどうだったのであろうか。
この地域の古高(1680年以前の古い石高)を集計すると1,550石ほどになる。
江戸時代当初の60〜70年の間に300石の増加があったのだから大きな変化である。300石と云う規模はちょうど和南津と中山を併せたていどの石高であるから、わずかな期間で、地域の
社会的生産力が一気に増大したことがわかる。
これを地域別にみると、和南津・川口・田麦山で新田が拓かれたのであって、他の中山・牛ヶ島・武道窪・相川・荒谷などでは、新規の開発で見るものはなかった。しかも、300石の増石は川口で240石を占めて、和南津と田麦山はわずかであった。
当時の新田開発は水田開発に主力がおかれていたのだから、新田石高を持たない地域や、新田高の少ない地域では、中世からの古くからの村の開発で山水・沢水の利用がすでに限界となっていたことから、新たな水利・水源を見つけないと田んぼを起こすことが出来なかった地域と読みとれるのである。
このようにみると江戸時代に入って240石の新田高を得たのは、、
山間地からぬけた川添いの川口地域で、ここが川口町での大きな変化の中心になっていたことがわかる。そしてこの変化のための水源水利をどこに求めていたのであろうか。
じつは、この川口地域とは今日の東川口と西川口を一つにして
川口村としていた区域であって、
240石の新田は西川口地区のものであった。
西川口では相川川に沿った山後新田の開発がまず容易であった。
そして相川川に堰口を設けて取水する本格的な水利潅漑がはじまって、上堰と下堰の2本の堰が掘られて、魚野川に沿う
前里地区に水を引いた新田が起こされたのである。前里地区の水利は、さらにこれを延長することで
中新田の開発をもたらしていた。
写真 左端 相川川の流域と前里。 右端 前里の水利を延長した中新田。
相川川が魚野川に合う落合いには、二つの川の氾濫原の沖積地で地味は肥えていた。中新田も魚野川が信濃川に合う落合の地形で、ここに出来た沖積地は肥沃であった。しかしこの地域に信濃川・魚野川の大川の水を引いての新田は技術的に無理であって、小高から流れ出る相川川の水を分けることで、大川に沿う平坦な肥沃地に水田を開くことを可能にした。
川口町地域が、
山添いの稲作から、平坦地の稲作に進出する最初となったのが
二つの落合の開発であり、江戸時代初期の
240石の開発が川口の稲作の転機になっていたことを読みとれる。
この転機ははまた、川口の稲作が
魚野川・信濃川の洪水とも闘う稲作に転じたことも知らねばならない。
相川川落合いと前里。奥の山手に山後新田が見える。>
信濃川と魚野川に挟まれた三角州・中新田。
正保元年(1644)、新田成就と記録に残る。
中新田に屋敷を持った農民は、信濃川対岸などの他の地域からの入植者であった。
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