原新田開発で、取水の難工事に命を懸けたその通水の日、鳥居坂の堰に蓑を着けたまま寝て水を待った
開発者、原田大蔵の背は、相川川から導かれた水で浸されていった。と、この物語は中学生のとき学校で聞いた。
三郎次は西川口者ではないので、原新田を知らなかったのだが、劇的に
語り継がれたムラの話を聞かされたときの印象は五十数年を経たいまも鮮やかである。
晩秋の晴れた日、その原新田を歩いた。 (
11月10日 写 )
整った田原の遠く向こう、
東川口の山並みが色づいて鮮やかであり、二子山が遠望される。
十八番お山は、川口のシンボル的な眺めであるから、その崩落はここから望んでもいっそう無残である。
昨年の10.23地震のときは、まだ緑の残る山が崩れ落ち、山肌の茶色と木々の緑の対比がせつなく心に残った。やがて深まる秋で急激に色づいた山は地肌の色とのコントラストをうすめていた。今こうして色の移る山並みを見ると、どうしても昨年の被災のこと、心の動転がよみがえってくる。

田原の奥まったところ、道の交わる傍の草むらに小さな石祠があった。鉄パイプで鳥居形を組んで素朴なたたずまいである。
鳥居坂、原新田堰、この祠は古記録に元禄元年(1688)、新田成就を祈って
神明社を祀るとあるその石祠であろうか。
やや離れたところに、小さな石祠とは対照的な石碑がたっている。
開田三百周年記念碑とある。語り継がれたムラの物語は三百有余年の歴史をもっていたのである。
(つづく) (
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