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今日25日は秋晴れの穏やかなお天気なので、語り継がれたムラの記憶の
原新田水路をたどってみようと出かけた。
後背山地を持たない河岸段丘は水利の便を欠いている。水田稲作の意味が濃くなる中世社会では、この西川口の平らに、ムラの展開は遅れていたようである。
「
あらや」「
あらしき」の集落名に荒屋・新敷の漢字をあてても、荒れの意味よりも、新たな居屋敷のムラを意味する呼び名であったことは、このムラ草分先祖の話をきくと、ここに移り住んだことの新しいことが容易にわかる。
ここの開発に、相川川の水を引いた
原田堰の乗せ口は岩出原である。
この岩出原に、
もう一つの記念碑が建っていた。

これは相川川から引いた長い江筋が老朽化したので、コンクリートの巻立てなどで、全線の大改修が完成したことを記念してと、碑面に記した近年(平成13年)の建立であった。
この碑からやや内ヶ巻に進むと、この季節には水を落としているが、立派な水路があらわれる。

幹線道と交差するこの場所の水路だけは目につくのだが、この先の相川川の水の引き込み口までへは、ふだん触れる折はなかったのである。

相川川の浸食で出来た段丘崖に沿って、コンクリート三面張りの立派な水路が続いているが、奥に進むと崩落しかけた箇所もある。
10.23地震の傷跡である。

水路に太い給水管が何本も放置してあったのは、地震で崩壊した水路の復旧が間に合わないので、今年の稲作には応急の処置で、谷下の相川川から仮設ポンプで汲み上げた給水管なのであろうか。
全線コンクリート張りの改修がすんで、安心したばかりなのに、この地震では修復不能に近い被害をうけたとの嘆きを、関係者から聞いていたのだ。この仮設の給水管で、今年の原田は例年と変わらない実りを迎えることが出来たのは、関係者の努力であった。
水路が内ヶ巻駅に近づくとこんな標識も立っている。
鉄道線路を越えると、相川川谷底に沿って崖下を、あるいは刳穴を通っている。崩れた土砂でいたるところで水路は絶たれていた。
このような大きな崩落を目にすると(
私の写真では被害の実感を表現しきれないが)、
被害の修復の困難さを思うことはもちろんである。
しかし三郎次には、
三百年前ここに水路を通して田んぼを開いたことの困苦に思いを致すことの方が大きかった。
いかなる時代、いかなる社会、いかなる人知が 成し遂げた偉業なのかと考えながら、夏の日に十八番山頂から望んだ西川口の田原を思い起こしていた。
新田25町歩、
17世紀末、当時の川口地域(現川口町域)の田地の約2割を一気に開き起こした業はなんであったかと、これも思い致すのである。
(
十八番 山頂から西川口田原 本年8月末 )
(
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(つづく)

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