( 前のページ )←
原新田の開発で、貞享元年(1684)の太左衛門の願出には
「 江堀御人足大積り四千三百五十人余 」
「 江通ハ道法二十二町十九間 」 (1,339間=2,410m)
「 新田四百石余 」
(
前掲11/29 太左衛門文書)
とあって、
約2.4kmの水路開削に4,350人余の人足を必要とし、およそ
400石余の新田を開くことの目論見である。
この人足を魚沼郡の村々から動員しての開発の願出には、
川口村が置かれた状況をのべている。
(
川口村は )
「 魚之川信濃川両川端通
ニて
田地年々川欠け
ニ罷成申候 」
「 宿場之儀
ニ御座候
ハバ漸
宿役相勤ハ迷惑仕候 」
「 御慈悲を願之通
御人足を以新田開発仕候様ニ被為仰付 」
川口の
近世新田の開発は相川川の水を引いた前里地区にはじまり、その延長上に中新田があって、江戸時代の初期のことと見てきた。(
9月18日の書込み)
この開発は同時に魚野川・信濃川の洪水とも闘う稲作に転じたのであった。
川口村は、江戸時代のはじめに、魚野川西岸に150石の新田を開いている。それが1,672年検地では88石に減じている。つまり開発高の約4割、
63石が川に流されて損地となったわけである。
そのことを述べて太左衛門は、開発新田に入った百姓は田んぼをほとんど流しても、宿役は勤めなければならないので、とても迷惑であることを訴えている。
宿役とは、江戸時代に入って
関東と越後を結ぶ三国街道が整備され、
川口がその宿駅場とされたことで、街道交通にかかわる宿駅のさまざまな役務を負わされたことである。
三国街道川口宿は
四半宿とされて、東海道の宿場の4分の1の規模を負わされていた。宿場人足25人、駅馬25匹を備えることが義務つけられていたのである。
その負担に耐えられる村の規模が必要であったことを、太左衛門は訴えているわけである。
( 宿駅本陣中林家、江戸時代の遺構をしのばせる石垣の構えは、10.23地震で大きく崩れる )
川口宿駅が受持つ区間は、街道の上り江戸方面には魚野川渡しの
和南津渡船場と、その先に八郎場の
とび坂峠越えの難所をかかえていた。また下り長岡方面では
妙見峠越えも川口の持ち場であった。
( 妙見山も10.23地震で崩れ、大きな悲劇を生んでいた。江戸時代の街道は今日のような信濃川添い崖下でなく、山越えであった。この峠を越え、とりわけ冬期間雪中の宿継ぎ送りでは、とくに難渋をきわめた記録が中林家に残っていた )
このような困難な場所をかかえての川口村の負担は、とても一村では不可能であったわけで、隣接村の応援対応が幕府によって認められていた。これが
助郷であって、川口では一組余荷(
よない)の組内助郷だけでは足りず、小千谷組の吉谷・四ツ子・山本・池ヶ原の村々を含んだ
27ヶ村が、川口宿の助郷に組み込まれていた。
つまり宿場本陣を勤める中林家はこれらの村々に、宿場人足の出動を求める催促の権利が認められる公の立場にあったのである。
( 左、中林家の定紋を染めて玄関口に掲げられたとされる提灯( 町資料館展示 )。 右、同じ紋所をかかげた土蔵。この土蔵には、400年にわたる地域の歴史の古文書が保存されてきたのだが、10.23地震で崩壊する。古文書資料の多くは町の保管土蔵に移されていて難をまぬかれたが、失った貴重資料も少なくはない。)
原新田の開発は、
宿場維持のために必要な村勢規模の確保であり、そのための江堀人足の必要を、
御人足として魚沼郡中の村々に求める催促権を奉行所に願出るとして、公儀ご用を担う川口村の立場を主張していた。
太左衛門の立場は一豪農開発者ではなく、
川口組大庄屋としての宿場維持の責任負う姿勢をにじませての開発の目論見であった。
(
写真はクリックして下さい ) (
つづく)

0