★連載NO.348
「火種を消すな!」南風原春子。「古鉄ひろい」たかはしのぶこ。「サトウキビが食べたい」松原慶子。
沖縄県退職教職員会の会員が書いた読み聞かせのための文と絵の本など数冊。沖縄平和祈念資料館が公募した「児童生徒の平和メッセージ」作品数編。5月後半から6月23日、日米戦争沖縄地上戦終結の日をピークにこの方、戦争体験記や平和への道、考察をつづった作文を意識して目を通してきた。国にとっては1度の戦争でも犠牲になった人々、生き残った人々の数だけ戦争はあったことを再認識せずにはおられない。そして、そのことは、63年経ったいま、戦火を潜ってきた者が個人の体験を通して児童生徒に伝え、少年少女たちも祖父母や両親から聞き、素直に戦争を否定し平和を希求していることを読み取って胸を熱くせざるを得ないのである。
先年逝った詩人・作家船越義彰さんが生前、茶飲み話でもらしていた言葉を思い出す。
「僕自身、沖縄戦で負傷。生と死の間を往き来して、幸か不幸か[生]を得た。戦争体験は重い荷物だ。担ぐのはやめて、もう降ろしたい荷物だ。しかし、降ろしたくても降ろせない、いや、降ろしてはならない荷物なのだよなぁ・・・・」
6月12日付、沖縄タイムス紙夕刊で、またひとつの[戦争]を知った。
「沖縄戦時に海軍沖縄方面根拠地隊で、海軍司令部壕において自決したとされる小山正信さん〈広島県〉の家族がこのほど、沖縄などの戦地から家族に送られた手紙19通を旧海軍司令部壕事業所〈豊見城市〉に寄贈した」という書き出しだ。
手紙は1943年6月から1945年3月まで、ラバウル島や沖縄から妻幸枝さん〈現在88歳〉に当てたもの。長女橋本恵美子さん〈64歳〉が1、2歳のころ小山正信さんは沖縄にいた。手紙には〈娘恵美子は〉「一歩二歩と歩く様になったとの事。一層可愛い事と思ふ」「よくご飯を食べるし、よくお喋りするとの事で小生の眼の前にその様子が浮かんで来るやうだ」〈1944年12月〉と、愛娘への思いがつづられている。一方で刻々と厳しくなる戦況報告とともに「今度は絶対的に白木の箱に入るものと覚悟している」〈1944年12月〉「最後の訣別の辞をおくる事になった」〈1945年2月〉などの文面。米軍上陸直前の1945年3月の手紙には「敵の来るのを待つ身を想像してみてくれ。進撃なら愉快だが〈敵が〉来るのを待つのは嫌だネ」と記されているそうな。[そうな]というのは私はまだ、小山正信さんの妻への手紙を直には読んでいないからである。小山さんは、1944年沖縄に着任。1945年6月、太田實司令官の自決後「海軍司令部壕で5人の幕僚とともに自決したとされる」と、沖縄タイムス紙は報じている。
故小山正信さんの手紙
推察するに小山正信さんは当時25歳前後か。妻の幸枝さんの現在の年齢からすると孫ほど。[一歩二歩と歩む様になったとの事]の愛娘恵美子さんからしても子の年齢。しかも、広島県在住と知って愕然とする。妻と娘は63年間、原爆と沖縄戦という二重の[戦争]を背負いつづけてきたことになる。
故小山正信さん遺品
劇団「真永座」主宰。琉球芸能組踊技能保持者などの芸能資格を有し、現役の第一線で活躍している仲嶺真永さんは、1935年〈昭和10年〉6月28日南洋諸島サイパンに生まれている。日本の南進国策による移民とは異なり、父真一が貨物船「浦島丸」を所有していて、早くからサイパン島を拠点として貨物を流通していた。真永少年9歳を数えた昭和19年11月末ごろ、日米戦争はいよいよ激化。仲嶺一家は沖縄に引き揚げることになった。サイパン島駐屯の日本海軍は、3隻の引揚船を当てるという。その情報を得た仲嶺一家は、家族会議を開いた。
「持船はともかく、家族は分散して引揚船に乗ろう。一家まとまって乗船した場合、敵の潜水艦に撃沈されると全滅になる。誰か一人でも生き残らなければなるまい」
会議はそう結論を出した。非常時の中では[死なば諸共]と考えるのが人情と思われるが、仲嶺一家は分散乗船することによって、誰か一人でもの[生き残り]を選択したのである。先発は祖父真秀、兄真昭、そして真永本人。次いで出航する船には乗らず、数日おいた3隻目に母シゲ、長姉つる子、次姉信子、弟真成は乗船。それぞれ一路沖縄をめざしたが途中「沖縄玉砕」を無線で知った引揚船は、進路を変更。神奈川県横浜港に向かい無事に着いた。
「サイパン島から横浜まで。4、5日だったような気もするし、半月ほども要したような気もする。2隻目の船は魚雷にやられたそうだが、誰か一人でも「生き残ろう」の思いは、一人も欠けることなく達せられた。先発のボクたちは横浜に着くまで、引揚船の暗い船底で後続の母たちの無事をひたすら手を合わせて祈っていた。後日談になるが母たちは母たちでボクらの無事を祈りつづけていたそうだ。その後、和歌山県田辺市に移り住み、土地の人々の世話になった。帰郷したのは昭和22年始め。いまこうして舞台人として生きていることの幸せは、舞台に立つたびにかみしめているよ」。
仲嶺真永さんは、口元を引き締めて語る。彼は現在、那覇市牧志公設市場寄りに工房を持ち演劇、舞踊などの小道具を製作する「仲嶺小道具店」を営む傍ら、後進の指導に[生き残り]の情熱を傾けている。
仲嶺真永
過日。
沖縄口で語る「沖縄戦100人の証言」のドキュメンタリー映像の上映に際し、芥川賞作家目取真俊氏、詩人高良勉氏らとともにパネラーとして参加した。私を指名したのは、沖縄口をほどほど使えることでの人選だったようだが、パネラーの中では年長だった。そのことを会場にいた50余年来の友人、ジャーナリスト・作家森口豁に話すと彼はこう云った。
「戦後を小学校1年生で始めたオレたちに、語部の役が回ってきたということさ」
二人とも1938年生まれ。
次号は2008年7月17日発刊です!
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