ここまでの歌を読み返してみて思うのは、やっぱり相聞が多いことか。できるだけ相聞は避けたいのだが、恋愛の甘さは詠みやすいのかもしれない。リリカルなことばを糊で貼り付けるようなのは好きではないのだが、どうもそうなってしまうきらいがある。よくないことだ。
「感受性がある」と言われておだてられた暴走族の悲しみを感じるような今日この頃なのだ。そうじゃないだろう!と自問していると急に歌が止まってきてしまう。
以前、「ゆ」さんのページで拝読した韻文・短詩の精神を、最近また眺めている。韻文と散文、定形と非定型、「7」と「5」の韻性の強烈さとそれゆえの安易さとのせめぎ合いは何となくいつも自分の中にある。「ゆ」さんのページは過去記事から飛んで行ってもらえればいいのだが、自由率俳句のページである。自由とは寄り添わないということなのだろう。寄り添わないとはことばの甘さや韻律の強さによらないということだ。その中で真摯に詩とはということについて語っていられる。短歌は韻律から自由になると心情が暴れまくり収拾がつかなくなるが、しかし、その強烈な韻律に寄り添いすぎるとやはりよくないのかもしれないとも思う。
「見る」だけではなく、五感全体の反映されたリアリティと精神とも神経とも言える部分が自身の哲学や思想に反映されて歌は出来上がってくるように思う。あまり文字の記号性を弄んだり、ことば遊びになりすぎたりするものはどうかと思う。そういう私もこうやって題詠をやっていると、私もいくつかそんな感じの歌を作ってしまった。よくないことだ。
もうひとつ考えておきたいことは、私が「今日の、おUTA」でも書いたが、口語で書こうと考えていることの問題である。口語で書こうと思うのは、文語の持つ完成度の高さから逃れたいという側面がある。文語で書くと些細なこともまるで大層な呪詛のような響きが生まれてしまう。私はこれが苦手だ。読むぶんにはいいのだが、自作となると別で、たいして内容のない私から重々しいことばが生まれてしまうことの痛みもある。だからだらしのない口語で書きたいと考えている。
こうやって口語で書いていると戸惑うのは、口語の短歌と短歌の韻律になってしまった口語の差である。たとえば「おまえだな! 俺のコーヒー煎れたのは。砂糖はナシっていったじゃないか」といった類の、短歌に似てしまった口語と短歌の差である。
自由率の俳句のようなその人のスタンドアローンな感覚というか、自身のリアリティを反映した突き詰めた感じがひとつの答えであろう。
私は出来ずにいるのだが、たとえばPDPさんのような複層的な発想などの工夫も口語で切り開いていく部分かもしれない。掛詞や縁語などのことばの音によるものではなく、イメージとして二つ以上の外部の世界を対象にするというのも面白い試みだと思う。私の読みがあっているかどうかなのだが、[1413] [1414]は二つの世界を明らかに詠んでいるのだと思う。
できるなら、残りの半道中はもう少しましなものを詠みたいものだ。背伸びかもしれないけれど。
