2017/4/7

想い出の共有  ひとりごと

 ほうれん草はさ、やっぱり、根元のところが美味しいよね、と思った今週。

 

 「想い出を共に語ることが出来る」ことの「重さ」を知ったのは、母が亡くなってしばらくたってからのことだと記憶している。

 当時の私は子の英国に英国人の夫と2歳の長男と住んでいた。もう居ない母の誕生日がきたり、夫の友人の結婚式に招かれたり、まだ喪があけてなくても義母が三度目の結婚をしたりして祝い事に参加したりしていた。


 母が居なくてもこの英国で、私以外の人々はいつもと同じ何気ない日常を送っていた。


 このころの私のことを「キャベツのようだった」と私は英国人に説明する。なぜ川わからないけれど、キャベツだと意味合いが通じる。掃除も料理も、夫との会話もしなかった。長男の面倒はみたけれど、必要最小限、いい母親だったとは思っていない。

 唯一の楽しみであり、私がまともだったのは父と電話で話していたときだ。家族が近くにいる私と違い、一人残された父を何とか励まして、長生きして欲しくて、こっちは大丈夫だといい続けた。


 母のことを話すのが楽しかった。そういえば、こうだったね、ああだったね、と。


 身近な人が亡くなって初めて知ったのは、ほんの些細なこと、何気ない日常の何気ない瞬間に、亡き人を思い出す、ということだった。


 ポテトチップスを見て「あ、コンソメ味が好きだったな」「ポテトチップスを卵焼きに入れたのをやめてくれと言って、がっかりさせちゃったな」とか、猫を見かけて「はじめて母が泣いたのを見たのは飼い猫が死んだときだったっけ」とか、アガサクリスティのドラマが放送されていれば「二人で競うように小説を読んだっけ」とか、長男がみかんを上手に食べるのを見て「最後に元気な母にあったときはまだうまく食べることが出来なかったな」「その後1週間もたたないうちにうまく食べることが出来たのを電話で話したな」「子供の成長は早いねって話したっけ」とか。


 あのころの私には父しか母の想い出を共有できる人が居なかった。夫も何度か会ったけど、共有できなかった。だから、私は長い間キャベツだったのかもしれないと、今思う。

 愛する人の亡き後、その穴を少しでも埋めるのに、その人の想い出を共に語り合う、きょうゆうするというのは大切なことなんだ。だって、居なくなったけど、存在しなかったわけじゃないから。人の心はそんなに簡単にこんな変化に対応できない。


 キオクもキモチも、その人のことでいっぱいなのだから。




 歳のせいかな。最近の私はキャベツじゃないけど、妙に日本の歌やテレビを見たがるし、高校時代の友人たちにメールを送りたがって、想い出の共有を求めている。


 渡英して13年が過ぎた。44歳。英国での生活に慣れてきた今、ひしひしと、生まれ育った国を離れて暮らすことの本当の意味を感じている気がする。


 自分の居場所は、未来はココなのだと覚悟は出来ていても、いや、覚悟が出来たからこそ、自分のルーツが妙に恋しい。
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2017/3/31

いろんな親がいる。  ひとりごと

 夏時間となり、夜暗くなるのが遅くなった。あーこの時期好きだわ、花粉症さえなければ。気温も上がったり下がったりを繰り返しつつも、確実に上向きで、ちょっと歩くと汗ばむくらいに(着込みすぎという意見も)。

 そうだなぁ、今日は世の中には「いろんな(いろいろな)親」がいるんだなぁって言う話しをしてみようと思う。



 同じストリートに次男(9歳)と似たような年頃の男の子が3人住んでいる。3人とも、学校から戻るとお互いを誘い合って、暗くなるまで道でサッカーをして遊んだり、あるいはぶらぶらと時間をつぶしていたりする。

 その輪に我が家の男子たちは参加しない。なぜなら、うちでは子供たちに道で遊ぶことを許していないからだ。遊ぶなら、庭(家の敷地内)か、公園と決めている。車の通りは多くはないとはいえ、ゼロではない。それに平日は結構忙しいものだ。学校から戻ると、制服から着替えて、本読みや宿題をして、夕食をとる。なんやかんやで5時くらいにはなってしまう。だから、公園に行くのは、Mr.Bが仕事から戻る6時くらいから30分くらいだ。それも夏時間期間限定で、冬時間のときは行かない。

 この3人は、夕食いつ食べているんだろう?といつも思う。がっこうから帰るとまさにその足で、という風に見受けられるからだ。あと学校の制服を着替えることなく暗くなるまで遊んでいる。宿題はいつやるの?親の姿を外で一度も見たことがなく、放任主義なのだろうか?こういう子たちが将来、道にたむろする時間をもてあました十代になるのだろうな、と思ったりする。



 先日、次男を学校に送っていった際、登校中に歩きながら、クリスプス(ポテトチップス)を食べている子を見た。この子は以前もジャムタルトを食べていたっけ。これが朝ごはん、しかも歩き食べって…。いったい親はどういうつもりなのだろう?

 放課後も同じ光景がたくさんみられる。学校から出てきた瞬間に子供にクリスプスやチョコバーを手渡す親が毎日何人もいる。また歩き食べだ。それだけでなく、空になった袋や包みをそのまま歩きながら道に捨てる子供も少なくない。親は見てみぬ振り、というか当たり前という感じで去っていく。ごみはゴミ箱へ、というのが当たり前の私にはさっぱり理解できない。


 他にも、バイキング形式のレストランでお皿一杯に食べ物をとってきて、ぜんぜん食べない子供、に何も言わない親。とか。

 スーパーでまだ代金を払ってない商品を子供がぐずるからと食べさせちゃってる親。とか。

 嫌がるからとチャイルドシート(ベビーシート)を車で使わない親。とか。

 毎日学校に遅刻してくる子の、親。とか。

 学校に制服を着てこない、あるいは指定のじゃない子の、親。とか。



 いろんな親がいる。で、私はぜんぜん理解できない。あの人たちにとっては、私のほうが厳しすぎる変な親なのかな?
 
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2017/3/24

環境は、大事。  ひとりごと

 あー、来たね花粉症。えらいな毎年忘れずやってくる。今年は春を告げる花々が正当に、順序どおり咲いていると思う。去年は全部一緒くたになって咲いてたのが今年は、スノードロップから始まって、クロッカス、水仙、ムスカリと順を追って花開いている。

 先週は、長男がこれまで棚の上で埃をかぶっていたレゴの数々を処分すると決めたので、ごちゃごちゃと忙しかった。オークションサイトで物を売るのはお金を得るには良い方法だけれど、時間がかかる、とられる。面倒な作業だね。

 これで部屋の模様替えができ、勉強机をおくことが出来た。これまでは騒がしいキッチンで次男と共に勉強してたのが、一人で静かに宿題を片付けることができるようになった。思っていていた以上に、はかどっている模様で、何でもっと早くこうしなかったかなぁと反省。

 ちなみに、長男の人生初の勉強机は、Mr.Bのおじいちゃん、つまり、ひいおじいちゃんの机。

 やっぱり、環境は、大事だ。な。



 ここからは、余談。

 前回の更新の翌日に、中居くんがラジオで歳のとり方についてチラッと話していて、すごい偶然だなと思った。やっぱり、同い年だからね、そういう年頃なのかもしれない。彼の言う、いい顔してるしてないというのは、きっとこれまでの生き様、内面からにじみ出る、人相のようなものなんだろうな。

 私個人の意見としては、味いちもんめのころのような、シャープさ、尖った感がなくなり、人間味のある、やさしい面立ちになって、彼らしいなと思うのだけれど。

 その中居くんの番組に風間トオルさんが出演されていた。小さい画面で、遠めだからかもしれないけど、木村君に見えたんだよね。何度見ても、似てると思った。ふーんって、いろいろと考えちゃったわ。

 町で時々、おっちゃんか、おばちゃんかわからない人を見かける。どっちや?ってすっごい観察する、自分で答えだせるまで。

 そんなことを続けていると、ほぼ間違いなくおっちゃんに見えるのであって、おばちゃんに見えるんじゃないって気づく。人は歳を取ると、おっちゃん寄りになっていく人はいるけど、おばちゃんよりになっていく人はいないんだなぁって。たぶんこれは、女性ホルモンの影響だろう。でも、歳をとってもおばちゃんでいる人もたくさんいる。

 私は、思う。

 おっちゃんに見えるようなおばちゃんには、ならないぞっ!



 ※日本の父、無事手術を終えて経過も順調でありがたい。父談「病院のメシがまずいってのは本当だった」。
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