2021/11/3
1998年12月
豪州から帰国し、せっせと仕事とバイトに勤しむオイラに一本の電話が入った。
「ウチに来て働かないか?」
それは、そこまで面識はないが大会会場で挨拶を交わす程度のT氏からであった。
「来年(1999年)春に姉妹校のスイミングをオープンするので、そこのオープニング(立ち上げ)責任者をしながら、ウチの選手強化の責任者になってほしい」と。
というわけで、1年2ヶ月お世話になった静岡のスイミングを1998年年末に辞め、1999年の年明けと共に千葉県内の某老舗スイミングスクールへ。
が、ココでも契約社員。
ただ、オイラも色々と学習したので、契約条件の中に「年間複数回の渡豪(=競泳の勉強のため)」を盛り込んで頂き、渡航費用や宿泊代を会社に負担してもらうことで合意した。
そして、1999年秋。
国体終了後の20日間、再び渡豪🇦🇺
そこで、「師」と出会う。
我が師、Mr. Ken Wood氏
(画像は2013年に渡豪した時のもの)
1999年当時、ジェフ・ヒューギル、リーセル・ジョーンズ、ターニー・ホワイト、メリッサ・ゴーマン等の世界記録保持者、オリンピアンを指導していたウッド氏に師事出来たことは奇跡に近く、多くのことを学ばせていただいた。ウッド氏との詳細は2018年6月、彼への追悼投稿となった「豪州の恩師逝く」をご覧ください。
それからは毎年オフの時期にウッド氏の元を訪れ、チームビルディング法、選手育成法、泳ぎの基本的な考え方、アプローチの仕方等々を伝授していただいた。
帰国しては、それを日本流そして「成流」にアレンジし、自分のスイミングへの指導へと活かした。
その結果、
全中、インターハイ、JO、国体といった全国大会において優勝者や入賞者を数多く輩出し、(オイラはコーチとして帯同していないが)ジュニア代表を含む日本代表選手も多く輩出することが出来た。単独チームとしてJOで男女総合4位まで行くことも出来た。
そしてまたしても自惚れた…。
2004年春、五輪選考会において惨敗したオイラを待っていたのは「契約解除=解任=クビ」だった。
(またまた)つづく
