こんにちは〜、またまたローカルな話題です。以前、お伝えした土佐市の居徳遺跡ですが、縄文時代晩期(2800〜2500年前)の人骨が出土したということでしたが、なんとそれを500年も遡る結果が新たに出ていたとは。以前はこうでした。概略を再度アップいたします。
縄文晩期に戦争?人骨複数に鋭い殺傷痕
(引用元:土佐市Hp〜居徳遺跡群)
《土佐市高岡町で高知自動車道建設に伴って発掘された居徳遺跡群から縄文時代晩期
(2800-2500年前)の9人分15点の人骨が出土、
内3体分には金属器によると見られる鋭い傷や矢じりの貫通痕があり
鑑定した奈良文化財研究所は
「国内最古の集団同士の戦闘行為の痕跡」と発表した。
平和だったとされる縄文時代に
戦争が存在した可能性を示す画期的な発見となりました。》
それがですね、『日々是好日』さんのブログに遭遇しまして、2015-08-07付の記事[“もののけ姫シンクロ”から“スサノヲの剣”]でわかったのですが、新たな分析でさらに古い人骨らしいと推定されているとのこと。
『日々是好日』さんは、「タタラ」と「スサノオの剣」を調べているうちに、この「居徳遺跡」情報を得たらしく、その詳細な情報源を紹介してくれていました。ブログタイトルは『恩田義明めも。』となっています。以下、そこから転載させていただきます。
日本における戦争の起源を探る 土佐・居徳遺跡と鳥取・青谷上寺地遺跡
(2009/08/16:恩田義明めも。)
▼「居徳遺跡」で講演 松井章氏(奈良文化財研究所主任研究官)
弥生文化を先取りか 人骨に異常な傷 魂戻らぬよう損壊?
(2002/04/23 高知新聞朝刊)
土佐市の居徳遺跡群から出土した獣骨を「傷あとのある人骨」と鑑定した奈良県・奈良文化財研究所主任研究官の松井章氏がこのほど、南国市の県立歴史民俗資料館で「居徳人骨に見られる殺傷痕と損傷痕」と題して講演した。平和な時代とされた縄文時代に戦争の可能性を指摘した同氏の講演要旨を紹介する。
■骨の穴に興奮
居徳遺跡から運ばれてきたコンテナの骨を見て人骨があるのはすぐに分かった。成人の
大腿(たい)骨に穴を見つけて興奮した。
この穴の断面はまんじゅう形。電子顕微鏡で見ると、穴の周りに骨の一部が内側にめくれ込んでいる。こんな断面形を持ち、貫通力のある鏃(やじり)は、シカの足の甲から作った骨鏃(こつぞく)しかあり得ない。さらに穴の裏側の骨が周辺ごと吹っ飛んでいた状況も矢による貫通痕だと断定した理由だった。
一方、
貫通痕の反対側、股(また)に近い方には直線的な切れあとがある。九州大学の中橋孝博教授は、「
輪切りにするように骨の裏側まで通っている」と鑑定された。こうした傷は
石器では不可能だ。
青銅器で可能かどうかはまだ分からない。
■強い憎悪感じる
しかし、居徳遺跡の時代(二千七百―二千八百年前)には突き刺す道具としての剣はあっても、切り付けるための刀は存在しないようだ。
中国でも鉄の作り始めの時期。人骨の年代測定を準備しているが、この年代のものだと証明されれば、さらに大きな問題になってくる。
一センチ幅の三日月形の傷あとがたくさん見られる人骨があるが、これはノミのような刃物で突き刺した傷だろう。電子顕微鏡で見ると真ん中が浅く、両側は深い。浅い部分は刃こぼれと考えられる。同様の傷がイノシシの骨にも付いており、
刃物を使い回したことが分かる。非常に重宝していたのだろう。
ただ、戦闘での死者や普通に死んだ人を捨てたとしても、ばらばらにした上、刃物で突き刺すようなことはしない。中には連続して八カ所も傷が付いている骨もある。死者に対する加害者の強い憎しみを感じる。
現代で言えば、
民族紛争のような集団間の非常に強い憎悪。さらに想像を膨らませれば、死んだ人間に対する畏怖(いふ)や恐れから、
魂が戻らないように死体を徹底的に損壊したのではないかと思う。
■「異人」との戦いか
居徳遺跡は
漆の製品や東北地方の土器が出てきたり、非常に特殊な遺跡だ。
たとえば、シカの角をくりぬいて工具の柄にした
骨角器も出ている。これは
朝鮮半島で多く出ているが、日本では弥生時代に伝わり、縄文時代にはなかったとされる。
しかも、朝鮮半島の骨角器は石器ではなく、ノミやナイフがはまっていた。
鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡でも同様の柄が出土し、ノミのような鉄器がはまっていたとされる。居徳の骨角器もそうだったのではないかと想像する。
出土した獣骨の中に
犬の骨もある。ほかの獣骨の状況も考えると、食べていたのだろう。弥生時代の遺跡には
犬を食べた痕跡があるものもあり、その点からも居徳遺跡が縄文文化の伝統を受け継ぐものではなく、弥生文化の先取りをしたものではないかと考えられる。
そう考えると、人骨の傷も、居徳遺跡周辺に住みついた
弥生人の先駆けというか、
土着の縄文人とは異質の「異人」が
土着の縄文人と戦い、付けたものではないかとの推測も成り立つ。人骨の傷は歴史教科書を書き換えるほどの価値があるだろう。
ただ、居徳遺跡の時代から弥生時代が始まるまでには
数百年の隔たりがある。その辺をどう解釈するか。遺物の整理が進めば、石器や土器にこれまでの「縄文」の範ちゅうから外れる点が出てくるのでは、と期待している。
まつい・あきら 大阪府堺市生まれ。東北大大学院文学研究科博士後期課程中退。現・奈良文化財研究所に入所し、英国ブリティッシュミュージアム客員研究員、米国ハーバード大客員研究員などを経て現職。京都大大学院人間・環境学研究科助教授を併任する。専門は動物考古学。奈良市在住。49歳。
▼居徳遺跡の殺傷痕人骨「評価変わらず」 弥生の年代変更説 /高知
(2003/05/21 朝日新聞朝刊)
「弥生時代の始まりが約500年さかのぼる」という国立歴史民俗博物館(千葉県)の研究発表が波紋を広げている。県内には、殺傷痕(さっしょうこん)が付けられた骨が出土して「戦争の起源は縄文時代にあった」と論議を呼んだ居徳遺跡(土佐市)があるが、時代区分が変化すると、この遺跡への評価は変わるのか?
居徳遺跡は県埋蔵文化財センターが98年に発掘し、土器などから遺跡の年代を
2800年〜2500年前の縄文晩期後半とした。この遺跡から出土した人骨を
奈良文化財研究所(奈良市)が鑑定し、昨年3月に「矢じりが貫通したり、刃物で切られたりした骨がある」と発表。集団と集団が争う戦争は弥生時代が起源とされていたが、これが
縄文時代にはすでに始まっていたことを示唆すると話題を集めた。
一方、
名古屋大年代測定総合研究センターがこの人骨を放射性炭素年代測定した結果、当初推定されていたよりも
さらに500年ほど古い、
3200年〜3000年前のものであることが判明した。
県埋蔵文化財センターの曽我貴行主任調査員は国立歴史民俗博物館の調査対象が九州北部の遺跡だったことから「九州北部と高知とでは同じ時代に違う文化の営みがあったはず。
九州北部の時代区分を高知にはそのまま当てはめられない」と語る。
曽我さんはその上で「たとえ弥生時代の始まりが500年さかのぼったとしても、出土した人骨は縄文時代のものであることには変わりがない」と強調した。
人骨から殺傷痕を発見した奈良文化財研究所遺物調査技術研究室の松井章室長は「絶対年代だけで時代区分すると混乱を招く」としながら、「
居徳遺跡には弥生時代を象徴する稲作の痕跡はなく、殺傷痕付き人骨が縄文時代のものだというスタンスは依然変わらない」と、今回の発表から影響を受けないことを強調した。》
縄文時代が戦争のない平和な時代だと私もなんとなく思っていましたが、違うんですかね〜。では、いったいいつから戦争は起きていたんでしょう?アトランティスとか、あるいは宇宙レベルでいくと、エンリルとエンキの時代とか。果てしなく延々と今にも及んでいる。

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