太気拳セミナーを終えてからも岩間先生の講習(?)は終わることがなく、そのエネルギーには毎度のことながら驚かされる。
今回は、セミナー後に行われた懇親会も含めて、先生の印象的だったお話をつづってみた。
「外家拳にも凄いヤツがいて、俺の知り合いの謝柄鑑(自然門拳法)は、空手のトップ選手とは比べものにならない位の凄まじい動きをしていた。
俺は彼の動きをつぶさに観察して、よいと思われる部分は全部フトコロに入れさせてもらった。
太気拳のような内家拳は外家拳の長所を自由に吸収することが出来るという特性がある。
反対に(空手なども含めて)外家拳は内家拳を吸収しようとした場合、自らを一旦、否定しなくてはならなくなる」
「空手などは基本的に積み木理論である。対して
太気拳は全体理論である」
「
正しいとか間違っているということではなく、より合理的であるかどうか、ということ」
「何度も言うが、俺は基本的になまけものだから稽古においては合理性を追求する」
「1回約2時間の稽古の中で、推手にはどのくらいの時間をさけばよいと思われますか?」との質問に対して
「5〜6分だな」
「
推手は攻防の一手段に過ぎない。そのワンシーンだけのためばかりに時間を割いていても仕様がないだろう。
中には遠間から蹴りで飛び込んでくるようなやつもいるんだから」
「推手は練習の時の様に腕と腕をお互いに合わせた状態のみとは限らない。
パンチを受けて手が接触している状態も推手だろうし、相手が組みついてくるのを手で防いで腕と腕が接触しているのもそうだし、必ずしも稽古の時のように腕と腕を合わせているとは限らないだろう?
そんな状態を俺は
瞬間推手と呼んでいる」
「手と手が合った瞬間に、次の行動を予測して変化する場合もあれば、
身体が勝手に動いてくれる場合もある」
「相手を制するためには相手の腕にこうやって触れてしまえば、もう次の行動は出なくなる」
(座ったままで本村参段の構えた腕にさりげなく触れた状態。すると本村氏は動こうにも動けなくなる。本村氏によると、接触している腕を通じてまるで脊柱をつかまれているような感覚で、動こうにも力が出ない感じであった、とのこと。)
動きについて
「
身体のなかで無理しているところを少なくするんだ」
これは、動きの質を追求する太気拳修行者にとって、具体的で重要な指摘と思われる。
「
組み手は量ではなく、質だと思う」
「相手と対峙したら主導権は自分が持ち、空間を漂う様に間を感じる。
出たり入ったりしながら
相手に主導権を持たせない」
「
組み手の際はずるがしこく、相手と対等の勝負をしようなどとはしない」
「打つ際は、
打つのではなく弾く。正面から首の後ろを正確にねらう」
「接近した状態では組み付きたくなるのが本能だが、それをちょっとこらえて、つかまずに手を自由にしておく」
「太気拳の組み手は見栄えが良くない場合もあるがそれでよい。鮮やかな場合もあればそうでないグチャグチャ、ドロドロした場合もあるが、そこをいかに制してしてしまうかだ」
自身の数多いストリートファイトの経験のなかで
「ある時、相手に対してビビっているわけでもないのに脚が震えてどうしようもないことがあった。これは、頭に血が上って脚が貧血になっているから。そういう時は意識的に
気を降ろさなくてはダメ」
学ぶ者の姿勢として
「猫が虎に技を教える、虎は技を全部教わって猫よりも強くなると猫を食べようとする。その時、猫は木に駆け上って逃げる。これが最後の技で、その最後の技を猫は絶対に教えない。
学んだ後に急に態度が変わる人間がいるが、
全てを授かろうとするならば最後まで学ぶ姿勢と師を尊ぶ心がなくてはならない」
自身の会社経営に話がおよんだ際
「年商100億の会社社長と商談した際、年商2億の俺が対等に渡り合い、取引を成立させた。
物事は胎をすえるということが肝要で、そうなった時の気迫、迫力は相手を圧倒するものだ。澤井先生がそうであった」
「会社にしても何にしても物事が大きくなろうとする時は、いいホコリも悪いホコリもいっぱいくっついて来る。
それを見極めて、悪いホコリは払いのけてしまうのが経営者(リーダー)の仕事、役割だ」
「 大事な人を命懸けで守る時の全身から出る気。相手を誘うための気」
澤井先生が王郷斎先生に学んだ際も、稽古の時のみならず食事などの何気ない会話から多くのヒントを得た、とセミナーの時も言われていたが、その話をまとめて行くと矛盾することが多く出てくる。
かつて澤井先生が王郷斎先生に「目を打たれたらどうすればよいのですか?」と質問したら「目を打たせよ」との答えが返ってきた、という有名な話がある。
この矛盾はどの様に解釈すればよいのか?
岩間先生ご自身「俺はなまけものだから」と言いつつ、至芸の境地を体現し、「稽古には合理性を求める」と言いつつ、やっているのは一見とても合理的とは思えない立禅、這いである。
達人レベルの人達の話を聞く時は、左脳的に分析の積み重ねで理解するのではなく、右脳的に全体をとらえなくてはならないと考える。
そこには感性、感じる能力が必要となる理由がある。
先生の動きをその目で目撃し、先生の言葉を聞き、その中から何かを感じとらなくてはならないだろう。
頭で理解しようとするだけでは道は遠くなるばかりだと思うのであるが、いかがであろうか。
空手拳法成道会
http://www.joudou.jp/

2