「太気拳セミナー」終了後、成道会門下生と八田、上山の両練士を交えて連続組み手が行われた。
素面にて顔面への手による攻撃は主に掌底まで、との了解によるものであった(実際には拳が飛んでくることもあったが)。
私自身、連続組み手に向けて特別に準備等していたわけでなく、当日の体調が思わしくなければ止めておこうとも思っていたが、普段の稽古でも有段者が勢揃いすることは滅多にないので、この機会にやってみた次第である。
結果、私自身の組み手に関しては、自己採点30点の出来で、正直言って、とても内外の評価に耐えられる内容ではなかったのであるが、岩間先生から「さりとて恥ずべきものでもない」とのお言葉をいただき、八田練士の連続組み手も併せて、DVDに収録することにした。
この連続組み手は、岩間先生が30代後半から40代の頃、30人〜40人という多人数掛けを澤井先生から何回もやらされていたと聞いている。
先生も、連続組み手に備えて特別な稽古等されていた訳ではなかった様で、仕事の接待や飲みごと等で自宅に朝帰りすると、玄関先に靴が何足も置いてあり、澤井先生が弟弟子を引き連れてやって来ているのがすぐわかったそうである。
先生はその靴を数えて「今日は何人連続だな」と組み手のことを想定したらしい。
その中には、島田先生、天野先生、久保先生といった現在、活躍されているそうそうたる先生方もいたわけで、組み手そのものが決して楽なものではなかったことが想像できる。
太気拳の組み手は、従来の格闘技のそれとは趣が異なる。
両手を前に出してフトコロ深く構え、手と手が絡み合う攻防は一種独特のものがある。
太気拳の組み手は素面素手で行われ、それ故に外傷のダメージは深刻で、安易に打ち合い等に持ち込むことは深手を負うリスクを伴うことになる。
そこで、あのフトコロを作った構えは必然的なのかも知れない。
格闘技としての組み手を追求するか、武術としての組み手を追求するか?
組み手自体が各人の考え方によって、その性質が大きく変わるものと考える。
組み手である以上、相手を倒すことが至上目的である。
しかし、必要以上のリスクを犯して勝利を得ることは、自分の身を外敵から守るという目的を持った護身としての武術として合理的なのか?
太気拳において、組み手そのものはあらゆる訓練の実技検証手段であるが、それが大会や試合にて勝利をつかみ取るという目的に変わった場合、その内容は一変するであろう。
澤井先生は「勝敗は己の内にあり」との言葉を残しており、王郷斎先生は「散手(組み手)と実戦は異なる。まず、実戦は戦機(闘争の開始)が自由である」と言っている。
太気拳修行者は、ただ単に勝った負けた、ダメージを与えた、より多く当てた、等といった判断基準から、自身がその中でいかに自由に動くことが出来たかを主たる基準にするべきではないか?
その上で、先述の諸々を評価の材料に加えるべきだろう。
その様に考察すると、今回の私の組み手の自己採点はさらに低いものになってしまうのだが・・・。
この様な組み手の捉え方をすると、従来の格闘技としての打つ、蹴るがそれほどの水準になくとも、太気拳をそれなりに修得してしまうだけで、その人はかなり手強く、又、実にやりづらくなる。
今回やってみて、うちの門下生のうち何名かがそうであった。
皆、30歳を過ぎたクレージーなオヤジたちである。
次回、もし、この様な機会が与えられたなら、もう少しマシな組み手が出来る様に日々の稽古に取り組んでおかねば、と気を引き締める次第である。
空手拳法成道会
http://www.joudou.jp/

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