組み手は、採用する方式、すなわちルールによってその攻防形態が変容する。
現在、ポピュラーなものにグローブ着用式、顔面パンチなしのフルコンタクト制、防具着用顔面パンチあり等がある。
各種選手権大会が数多く開催され、どのルールでもトップレベルの選手は皆、非常に強い。
そして、
どのルールも実戦的である。つまり実戦で通用する。
ノールールに近い試合も総合格闘技で行われているし、立ってよし、組んでよし、寝てよしのオールラウンドファイターである彼等の強さに対して疑いを向ける余地は無い。
つまり、どの様なルールであっても
実際にぶつかり合って、その中で残っていって、その切磋琢磨の中で更に抽出される人材というのはもともと強く、そして更に確実に強くなる。
ルールの欠点をあら探しして、実戦云々の計りにかけて比較することなど愚の骨頂である。
それぞれの方法には、それなりの意義、方針があり、それが現代社会に適合した姿なのである。
そして、ルールによって誰もが最善の攻防形態を身に付けていくのもまた事実であり、それが実戦という状況に則しているのかは、そこは各人の目的によるし、その目的に沿ったルールを選択すればよい。
いにしえの武道、武術の試合は死合いであり、命のやり取りに等しく、それが終わった後は、生か死、あるいはその後の人生を大きく変更せざるを得ない深刻な状況が待ち受けているのが常であったのではなかろうか?
そのため、簡単に試合を承諾することは出来なかったであろうし、やるとしたら、その精神状態は尋常なものではなかったであろう。
その様な条件を我々現代人が踏襲することは不可能に近く、それは興行の世界か、ごく一部の特殊な世界の人たちにはあっても、普通の社会人には到底無理である。
そこで、ギャップはあってもそれを自覚し、極力それに近い組み手の中に身を投じていくことが、我々社会人に出来得るギリギリの取り組みである。
王郷斎先生の「実戦と散手は異なる。まず、実戦は戦機が自由である。」との言葉にあるとおり、
実戦と試合は違う。
格闘技試合のチャンピオンが実戦で不覚を取らないとも限らない。
相手の人数、室内か屋外か、素手なのか凶器があるのか、恫喝から始まりどのタイミングで開始されるか、否か等によって試合とは異なる状況がいくつも想起される。
そして、忘れてならないのは日本は法治国家であり、実戦の場で勝利しても状況次第では法の裁きを甘んじて受け入れなければならない事態もあり得る。
ただ、自分のみの護身のみならず、家族や愛する人を危険から守らなければならない状況であるなら、その時は目前の相手を完膚なきまでに戦闘不能にする必要がある。
その様な、
外敵から身を守る、家族を守るという切迫した状況から考案されたのが武術であり、強さを競う格闘技とは本質的に異なる部分が多い。
太気拳は形意拳の流れを汲む実戦志向の武術である。
それ故、実技検証の手段は型や約束組み手には無く、自由組み手のみである。その方法がこれまた、旧来のノールール方式であった。
かつて、澤井先生が学ばれた王郷斎先生の時代には防具やグローブなどの用意は無く、組み手試合にもこれといった制約は無く、対戦相手が明らかに戦闘不能になる状態を確認できるまで行われたか、ギブアップしかなかったのではなかろうか?
それ故、生命の存亡にかかわる可能性は現代以上であったと考えられ、そして、これが太気拳本来の組み手であり、
太気拳の訓練体系はこのためだけに存在すると言える。
これが現代社会では普及の妨げになるとも言えるし、反対にリスクの高い組み手はその体系から除外されていく可能性も持ち合わせている。
成道会では、太気拳本来の実戦武術としての方向性を堅持しつつ、社会人が必要以上のリスクを背負い込むことなく、取り組み続けることの出来る方法を模索している。
それは、組み手の方式に現代の競技格闘技の長所を取り込むことである。
その結果、どの様な太気拳、武術が創出されるのかはまだ答えが出ているわけではない。
次回、そのことを踏まえた上で、成道会での組み手の取り組み方を考察していきつつ、各種の組み手の長所や短所も検証してみたいと思う。
空手拳法成道会
http://www.joudou.jp/

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