成道会におけるマスク式の組み手は、初段昇段にて掌打、肘打ち、頭突き、数秒間の組み打ちも認められるようになる。
これにて攻撃面での実用的な打撃技術の使用範囲は大きく広がり、技術体系に違いが現れてくる。
これがマスク式の長所のひとつである。
顔面というウィークポイントをプロテクトすることで、ほぼ全面的な思い切った攻防が可能となる。
そして、組み手の数をより多くこなすことが可能となり、実際の攻防のカン、特に攻撃のカンが身に付いていく。
実際に大道塾のトップレベルは皆強く、他の格闘技に参戦してもプロと互角以上に闘える選手が多く存在する。
成道会では初段以上は、マスク式以外に、グローブ式、素面掌底式も組み手の科目に加わり、これを定期的にこなしていく。
道場稽古としての素面で素手の正拳ありの組み手は容認できないが、それに近づけた形態の組み手を3種類行うことで、ルールによる攻防技術や攻防感覚の偏りを防ぐのが狙いである。
ポイントは顔面への手技、特に拳による加撃の危険度をどうやって減殺するかに尽きる。
拳による攻撃による顔面頭蓋の損傷の危険性を減殺しつつ、自由攻防を可能にするひとつの方法はボクシング、キックなどですでにおなじみの、今や世界標準となっているグローブ式である。
成道会では手にはシュートグローブ、顔面にはヘッドギアを着用して行っている。
ボクシンググローブは拳の面積が増大し、拳そのものを衝撃から守るという側面から、素手のそれに比べて、打ちこみ方が変化する。
素手で硬い頭蓋を打つのと、グローブで殴るのとでは異なる。
素手の場合、券をしっかり握りこんで手の中指骨の角の部分を正確に当てないと、自身の拳を痛めてしまうが、グローブの場合、アバウトに当てても拳の損傷は少ない。
又、パンチそのものの性質も変わり、点の衝撃が面の衝撃になる。
素手の拳では顔面の局部破壊は深刻な場合もあるが、実際に脳震盪で相手を倒そうとする場合、脳を瞬間的に揺らすのは素手よりもグローブの方が圧倒的に有利である。
つまり、グローブそのものが凶器ともなる。
防御技術もグローブによって大きく変わる。
ブロックの際にグローブそのものが防具の役割を果たし、防御技術もグローブを用いた形態に変化する。
この点で、太気拳の練りの中にある特徴的な防御法はあまり有効ではなくなり、太気拳の動きを組み手の中で引き出していくことはより難しくなる。
総合格闘技で使用されているシュートグローブはボクシンググローブに比べて小さく、太気拳特有の防御技術を使用する余地は生まれる。
又、掌底も使えるし、指が自由であるので相手の腕を引っ掛けたりといった推手技術の応用も出来なくはない。
この方法では、顔面への攻撃に対して衝撃だけでなく痛みも感じるし、アクシデントで眼球への接触もあるので、マスク式に比べて顔面への接触に対してナーバスになる。
安全面では素手よりは高く、マスク式よりも低い。
グローブでは網膜剥離などの目の障害が起きやすく、プロボクサーが現役引退をせざるを得なくなる理由もこれが圧倒的に多い。
そのため、組み手の頻度は考慮しなければならない。
それでも素面素手のそれとはまだ大きく異なる。
マスク式の場合、顔面頭蓋がほぼ完全にプロテクトされているので軽微な打撃は顔面で受けてもすぐに打ち返すことが可能となり、ある意味迫力ある肉弾戦が展開されやすい。
その点、シュートグローブとヘッドギアで顔面頭蓋のプロテクトが緩和されることで、マスク式ほど派手に打ち合うことは難しくなってくる。
それでも、素面、拳撃のあるそれとはまだ違う。
鍛えようのない顔面に対しては、素手の拳は鋭利な鈍器となり、それがあるが故に、相手との間、呼吸、気に対してナーバスにならざるを得ない。
強烈な拳撃を素面に被った場合、外傷の残る可能性が高く、顔面頭蓋の陥没骨折等の深刻な事態も充分考えられる。
そこが一般の社会人が行う組み手訓練としては難しいところで、そこに近付けた形態のひとつとして取り入れている。
成道会の組み手は各種方式の競技会で勝ち上がることが目的ではなく、実技検証の手段としてある。
仮に、太気拳を各種格闘技の試合用に、その技術体系を再構築しようと思えば出来なくもない。
その場合、練りの中にある太気拳らしい動物的な動きは消え去り、既存の格闘技の動きを参考にした上で内勁による動きを再編することになるであろう。
問題は、この内勁が実際に活用できるレベルで備わるかどうかだが、多くは目の前の切迫した課題をクリアするために、内勁を養成する手段である立禅等の時間のかかりすぎる基本功は放棄して、反復練習や体力強化等による手っ取り早く身に付く方法を選択するだろう。
手っ取り早く身に付いたものは、本人の資質に依存する所が大きく、加齢等にてある段階から急速に衰えてしまうのが現実である。
生涯武道を目指す成道会では、この様な観点から組み手は重要な訓練法として、つまり手段として存在するが、それそのものが目的ではない。
だから、立禅などの達成までに時間を要する修練を継続していくことが出来るのだろう。
それにしても、相手とぶつかり合うということは何らかの形で知っておく必要があり、このグローブ式組み手もあくまでもその手段としてのひとつである。
「組み手なき武術は無意味」とは王郷斎先生の言葉である。