現在の武道、格闘技を見渡してみると、試合を通じての検証作業を主体とした実技検証形態と、連綿と続く体系を継承し続けている伝承形態の2種類がある。
現行の各種武道団体はそれぞれの目標となる選手権大会があり、その中で切磋琢磨することで、レベルアップ、スキルアップを試みている。
試合の体験を重ねることで、自然とより効率的なスキルが確立され、その中から優秀な人材が輩出される。
競うことで向上していくという競争原理に則った、確実な方式である。
よく古流武術で「ルールのある試合は実戦とは異なる。実戦は試合の様に生ぬるいものではない」といったことを口にされる先生がおられるが、それを言えるのは本当に生死のかかった修羅場をくぐり抜けてきた人達だけでないかと考えている。
澤井先生はじめ当時の武道家は戦時下で、本当に殺傷にかかわる体験を数多くしてきた人達が多い。仮に試合を批判できるとしたら、この様な体験のある武術家だけである。
生死にかかわる体験はおろか、相手と対峙したことも無い様な武術愛好家が口にすべき言葉ではない。
試合の過酷さは体験した者でないとわからない。
試合前の重圧感、恐怖感は傍から見ていてわかるほど”生ぬるい”ものではない。
その様な環境に基づいて世界規模で切磋琢磨されているボクシング、フルコンタクト空手などのレベルの高さは言うまでも無い。
しかし、これらの競技格闘技では絶対に到達できない世界が武術には存在する。
それは生死が前提としてあった古代にあって、より優秀な人材が数多く武術界に存在していたと思われる中でも、さらに天才的な武術家によって発見された人間の持つ可能性であり、そこには数千年の歴史があり、競技の世界では絶対にそこには至らないと思われる。
これを現代に再現するには、伝承するしかないと考えている。
しかし、これも簡単なことではない。
運動能力、身体能力とは関係のない、伝承に携わる人材の才能、運によるところが大きいのではないかと思われる。
そして、稀有なる武術家を師と仰ぐとは、これも大変なことである。
客観的分析、一般的考察が一切通用しない世界であり、正直に言って内弟子になるくらいの覚悟を持って多くを捨て去って尚、足りないのではないか?
師は絶対的な存在であり、一般的な上下関係以上に一線を画して師に付き従う姿勢が必要である。
岩間先生は、立禅や這いなど、太気拳の中核たる多くをこと細かく教えて下さるというタイプではなかった。
しかし、先生がその動きを目の前で見せくれた時の感動、実際にその手に触れた時の感触、対峙した時の明らかに異質な何か、それらは全て言葉では伝えようのないものばかりだが、それらは私の脳にしっかりと刻み込まれている。
このデータを基に私自身の太気拳を追及していくより他に方法がない。
それは全て、太気拳の訓練体系の中にまとめられているはずなのであるが、普通に取り組んでみたところで、理解することは極めて困難である。
他の格闘技に見られる様に、その動きを映像等で研究すること等は、ほとんど意味をなさないばかりか、その本質を理解することはまず不可能である。
ここに伝承というものの意義があり、現代競技の世界には乏しく、古流の世界には確実に存在する。
又、伝承を受ける側が師に依存することなく、あくまでも自立していることが絶対に必要である。
その上で師を尊ぶ心も又、絶対に必要である。
王郷斎先生に対して澤井先生がそうであった様に、澤井先生に対して岩間先生がそうであった様に。
故に伝承を受ける側の素質とは、最終的には心であり、その厳しい師弟関係を守り続けることが出来る人間性にあるものとも考えているが、いかがであろうか?
今月、岩間先生を福岡に招いての「第2回・太気拳セミナー」が開催される。
言うまでもなく、太気拳はその伝承を持ってしてこそ、存在意義のある武術である。
試合での勝敗のみを追求するするのであれば、短期間で格闘の術を身に付ける方法は他にいくらでもある。
それに反し、立禅をはじめとした特異的ともいえる各種訓練法を継続し、その意義を各自で発掘し、体得してこそ、初めて太気拳とは何なのかを知ることが出来る。
前回、「一期一会」との約束で来福された先生に再度、福岡で太気拳の真髄の一端を披露していただける。
今回も一期一会かも知れない。
この様な機会にめぐり合えても、理解することはおろか、何ら感じることが出来ない人もいるかも知れない。
批評を下して終わりにするか、何物にも変えがたい財産として持ち帰れるか、それは、参加者各位によりけりである。
吉川英治著「宮本武蔵」の最後の一文に「波騒は世の常である。波にまかせて泳ぎ上手に雑魚は歌い、雑魚は踊る。されど、誰が知ろう、百尺下の水のこころを、水のふかさを」とある。
成道会門下生には、現段階では水のこころ、深さを知ることは出来なくとも、くれぐれも自らを雑魚に落としむることの無い様、岩間先生の一語一動から言葉に出来ない何かを感じ取り、今後の稽古の糧となるべく、有意義な時間を共有できることを希望するものである。
空手拳法成道会
http://www.joudou.jp/