手元の国語辞典で「研究」という言葉を引いてみると「深く調べて考察すること」とある。
前回、考察した運動理論も研究の末に定義付けられたものがほとんどである。
目前の事案を分析し、検証するという作業の上に成り立っている。
研究に際して、まず行われるのが分析である。分析とは物事を探求し、解明しようとする向上心の表れである。
これによって様々な分野での発展が可能となっている。
武術の世界では、一流と呼ばれる武術家をひとつのサンプルとして分析されることが多い。
太気拳では、王郷斎先生、澤井先生であり、我々にとっては岩間先生である。
これら武術大家の動きを様々な角度から分析する。その結果、こうではないか、という仮説が浮上する。そして、その仮説に則って実際に動いてみる。検証作業である。
大体において失敗に終わる。
私の経験上、
分析の積み重ねによって太気拳の動きを理解することは不可能である。
分析して解明して行くことよりも、実際に動いているその中で偶発的に発見されることの方が圧倒的に多い。
それは、ひとり稽古に取り組んでいる時が多く、いつの間にか稽古に没頭している時や、ささいな動きがヒントになって発見されることが多い。
どうしたらこの動きが出来るのか?等と、頭で考えている時にはまず大した発見が得られた試しがない。
私自身、よく少年部の稽古の際に「集中しろ!」等と言ってしまうが、集中とは集中しようとして集中するものではない。そのことに
没頭すると時間の経つのも忘れるほど夢中になることがある。これが集中ということのひとつだと考えている。
自分にとって余程楽しいことか、反対に余程切迫した状況の中でしか、集中することはない。
子供でも、テレビゲーム等に興じていると時間の経つのを忘れて「いい加減にしなさい!」等と怒られてしまうことがある。
自分の好きなことに取り組んでいると、自然と集中し、時間の感覚も周囲の状況も忘れてしまうことがあるが、これである。
又、反対に生命に関るほどの切迫した状況で集中することもある。
以前に聞いた話だが、交通事故で車にはねられて数メートル吹っ飛んでいる状態で周囲の状況がよくわかり、そのホンの数秒間が何分間にも感じらたという経験をした人がいるが、これもそういうものだと思う。
以前、弓道の高段者に聞いたことがあるが、的に向かって弓を引く時は、周囲がどんなにざわついていようとも、全く何の音も聞こえなくなるそうである。
我々も、組み手の最中に往々にして経験することがある。
集中しようとして集中できるものでないが、自然と集中してしまっている場合がある。
集中とは無心ということなのかも知れない。
分析の積み重ねではなく、集中出来ている稽古の中から発見されたものの方がより本質的であると思われる。
武術の世界は、事象全体を把握することと、物事の本質をつかみ取る、というふたつの才能が要求される分野であると思われる。
結局はどれだけ武術が好きなのか?ということになるのかも知れない。
しかし、ただ好きである、というレベルを超えた何かが必要かも知れない。
日常生活のすぐそこに生命の危険が潜んでいた時代に武術を学ぶということは、それ相応の切迫した理由があったのであろう。
それに対して、そこまでの必要性が無いにもかかわらず、現代人が武術を学ぶ理由は人それぞれである。
その様な環境下で、いにしえの武術家に匹敵する動きを我がものにするためには、武術をこよなく愛することと、そのためには自分の生命をもさらけ出すことの出来る心こそが必要なのかも知れない。
又、その様な時代に開発された術理を道として示してくれる師が必要であり、そこに継承、伝承というものが生まれる。これは必然であろう。
空手拳法成道会
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