昨年10月に成道会の現行の稽古内容を見直したところ、推手などの対人練習の比重を増やすことで、門下生が集まる成道会の稽古をいかに有効に活用できるか工夫している。
成道会での対人練習としては、推手、ぶつかり稽古、打撃におけるミットトレーニング、組み手、組み手の準備訓練としてのマストレーニングなどが挙げられる。
これら、相手との動きや手を通じてでしか学ぶことが出来ない訓練は、門下生が集まる道場稽古をフル活用するしかない。
そのため、立禅などは各自の現時点での状態を点検することを重視するようにしたため、それそのものに時間をかけて取り組むと云ったことが難しくなり、各自の自主トレに期待するしかない。
太氣拳の場合、各種対人練習も去ることながら、各自で行う一人稽古の比重が大変大きい。
一人稽古によってでしか得られないものが実に多くある。
一人稽古の主なものとしては、形体訓練、立禅、這い、揺り、試力、歩法、身法の練り、崩拳、打拳などが挙げられる。
ざっと挙げただけでもこれだけの種類があり、さらに各訓練法の内容も何種類にも分類される。
こうなると、ただでさえ自分の時間を確保するのに四苦八苦している社会人にとっては、全てを履修することなど出来る訳がないと思えてしまうかも知れない。
しかし、これら各種の自主練習の中でも、その基盤とも云える稽古がある。
言わずと知れた立禅である。
形体訓練はそれそものが太氣拳の動きに反映され、はたから見ただけでは分かりにくい螺旋力などの検証といった側面もあるが、立禅における理想的な骨格構造を把握して行くための作業とも言える。
立禅自体、実に奥が深く、静中の動、動中の静のなかで、自身の内在された力を引き出すための太氣拳の中核とも言える訓練法であり、様々な稽古の基盤となるものである。
樹木に例えると、目に見えない地中の根っこの部分が立禅である。
根が太くしっかりと地中に張っていれば、目に見える幹や枝葉はより大きくしっかりと成長してくれる。
根である立禅が変わると、幹や枝葉としての各訓練における動き、その他はさらに如実に変化する。
反対に立禅に取り組まないと、その他の訓練法における変化も期待できないかも知れない。
澤井先生が王向斉先生に1週間に及ぶ嘆願の末、外国人として初の入門を許可されたが、稽古と言えば、来る日も来る日もナツメの樹の前で立禅を組まされるのみであった、とのことであるが、この方法はある意味、実に理にかなっているのではないか。
立禅によって、身体に備わる内在された力をより多く引き出して、獲得した後に動きや技の習得に進む。
内在された力が高ければ高いほど、その動きの水準を左右する。
それが不十分であれば、いかに動く訓練を多く積んだところで、高いレベルに至ることは不可能であろう。
点がつながり線となる。線がつながり面となり、3次元的な太氣拳としての動きの獲得に至る。
この「点」の部分が立禅でしか習得、理解できないものと考える。
故に立禅が稽古の基盤として確立される。
より多くの時間をかけて立禅を組んだからと云って、必要なものが備わっていなければ効果は半減するかも知れないが、とにかく組んでみることで、そこに近づけるかも知れない。
1日数分でも、立禅を組む。
早朝でも、仕事の合間の昼休みでも、帰宅途中の公園ででも、気軽に、しかし、このわずかな時間が自身の武術のために最大に有効なものとして生きる様に心をこめて真剣に立禅を組む。
これから始めるハードなトレーニングのために、まとまった時間、心の準備などといったものを必要とすることがなく、いつでもどこでも、屋外でも室内でも気軽に取り組むことができる。
15分程度のわずかな時間でも、それが毎日ともなれば、数年後にはその人の動きを変革なさしめる基盤となるかも知れない。
仕事で忙殺される毎日でも、自身の身には武術があることを忘れずに生活の中に取り込むことが立禅によって可能となる。
故に、立禅が生活武術としての稽古の中核、基盤として位置づけられる。
門下生各位は、成道会の各種対人練習において、立禅により引き出されるであろう各種能力の検証を繰り返し、それを自身の稽古に反映させ、各自の生活の中に稽古の基盤を確立されることを希望するところである。
太氣拳成道会
http://www.joudou.jp/

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