最近、凝っている、と言うか、はまっている稽古のひとつに試力がある。
意拳を知っている人なら、ゆっくりと動くあの訓練か、とわかる筈だ。
立禅による変化が停滞することなく依然として続いており、試力の内容、中身も自分としては随分と変わったと感じている。
以前に比べたら、試力や練りを行なっている最中は快適でありながらも、稽古後での神経的な疲労が甚だしく感じられるのは、それまで見えていなかった部分が見えるようになったためで、その分、脳中枢を酷使するようになったためではないかと感じている。
立禅に於いて、構造能力を構築してそれを強化し、そして又構築して強化する、という作業を繰り返していくことで自身の身体が変化していくのは何回も書き込んだ通りだが、それが頭打ちになることなく、いまだに続いていることが我ながら実に興味深い。
正直言って、49歳になって、体力や筋肉のしなやかさが少しずつとは言え、衰えてきているのを感じているのは事実である。
日本の水泳界を代表するオリンピックの金メダリストも、20歳代の頃のピーク時の記録を更新できずに30歳代で引退するのだから、これは誰にでも起こりうる当たり前の変化である。
しかし、反面、数年前には理解することすらできなかった自身の身体に秘められているいくつもの能力が開発され、強化されていっているのが自身の身体で認められる。
衰えゆく体力と、それとは反対に、開発され、進化し続ける能力の両面を体感し続けるという特異な状況にいる。
その一面に支えられているから、現役の格闘技選手とも格闘技としてのガチの組み手が出来ているのだろう。
立禅によって体認できた能力のいくつもを損なうことなく動くことが出来るようにする訓練が試力であると言われる。
立禅は求力とも呼ばれ、力、即ち、各種の能力を養成するための訓練法であるとされるが、試力はそれを動きの中で、空間に引き伸ばしていく様な訓練と言える。
力を試す、あるいは、試みると書くくらいだから、立禅によって得られている能力を静止している状態から少しずつ動いてみる段階で各種能力が働いているかどうかを試す訓練とも言える。
各種の能力が、静止している状態から動きを開始してもキープできているかどうかを確認、点検するためにゆっくりと動く。
ゆっくりと動くから、確認や点検ができる。
私の場合、立禅による能力の獲得がそれなりに進んだから、試力の内容に変化が現れ、それを体認することができているから、試力の意義がわかるし、面白く感じるのだと思う。
立禅によって開発された内容がなければ、いくら試力をやっても意味がないし、やらない方がましかも知れない。
格闘技としての強さを求めるならば、体力強化や反復練習に時間を割いた方がよほど効率的だろう。
しかし、立禅によって獲得できている能力が豊富であれば、この試力とよばれる訓練法は実に重要な位置を占めるようになるものと思われる。
王薌斎老師は「力もないのに何を試そうと言うのだ」と言われていたようだし、「試力が最も難しい」とも言われていたとのことである。
立禅(求力) → 試力 → 立禅(求力) → 試力 →・・・。
この繰り返しは変わらないものと思われる。
試力と言えば、意拳で行なわれている、推手の際の相手の構えをこじ開けたり、潰したり、抑えたり挙げたり、開いたり閉じたり、まわしたり、といった、これまで一般に公開されている型のようなものもあれば、形体訓練も、立禅による能力を実際の動きに変換していくと言う意味では試力と捉えていいとも思えるし、その能力を実際の攻防の中で活用すべく血の通ったものにするとするならば、太氣拳の這いや練りも試力である。
私はこれまでに修得していたパンチにも試力訓練を適用してみた結果、先述のように筋肉のしなやかが失われていくはずの年代でありながら、反対にパンチ力やキレは以前よりも格段にアップした。
同様に一部門下生も打撃力の開発に成功している。
一流のプロボクサーの強力なパンチも、立禅による能力の観点からそのメカニズムが理解できるようになったので、ただ、形や雰囲気を真似るだけでなく、実際の威力を盗むことが出来るようになった。
立禅によって獲得された能力を実際の動きの中で使いこなしていくための訓練が試力であるとすれば、それは無限に表出、創作されるものと思われ、意拳と太氣拳ではその動きが似ても似つかないと言われる理由も、そのような角度から考察していくと納得できる。
王薌斎から始まった源流がその人、その人に受け継がれる中で自然と変化していったものと思われる。
それが自然だと思うし、太氣拳が澤井先生流の意拳であるとするならば、その系譜である岩間先生流を学んだ私の拳法も、その後、さまざまな影響を受けて私流に変化している。
厳格、厳密に修得すべきは立禅であり、そこは妥協が許されない。
それができていれば、試力との移行が繰り返され、実を結ぶのではないかと考えている。
「知らない」という段階から「知っている」という段階へ至るためには立禅が必要であり、次に「知っている」という段階から「できる」という段階へ、最後に無意識に「できている」という段階に至るために、試力は重要であると考える。
子供の頃に自転車に乗るのもこけたり、つまづいたりしながら、いつの間にか乗れるようになったり、箸を使うのも最初は考えながらやっていたのが、考えなくてもできるようになったりするのと同じで、意識的に行なう段階から無意識で行なう段階、つまり、潜在意識のレベルにまでその内容を正確に到達させるための訓練が試力なのだと思う。
太氣拳成道会
http://www.joudou.jp/

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