重松流のルーツの一説となっている「阿佐ヶ谷囃子」「田淵流」、阿佐ヶ谷図書館で調査した気になる資料をちょっと掲載しておきます。
「所沢街道」「藍玉」「日枝神社の祭礼絵馬」・・・となにかと関連つけられることも
多く、わたくしも頭の中で勝手な仮説を作っております。
皆様もオフシーズンの退屈しのぎにど〜ぞ。(笑)

杉並の旧村の地図 所沢街道は現在早稲田通りって言われることが多いかと
思います。ちなみに所沢の重松宅から阿佐ヶ谷駅まで徒歩で4時間ほどでございます。
本日は明治時代の阿佐ヶ谷のお隣の高円寺村周辺の資料です。
東大和市に高円寺流なる流派もあるようですが・・・。
以下は資料の文章でございます。
藍と紺屋
高円寺村の通り部落の農家は、妙法寺の参詣人や青梅街道を通る旅人の影響から、東京の
華美な生活にあこがれ、事業に手を出して失敗し、没落する旧家が多くありました。
明治維新後、杉並地方から田無方面にかけて天然染料の藍草の栽培が盛んになり、高円寺をはじめ各村の有力者は競って、藍玉の集荷問屋や紺屋(方言・こうや)を開業しました。
通りには、絣の木綿糸を染める紺屋が五軒あり、各店に渡り職人が五人から十人くらい住込みで働いていました。
職人たちが手なぐさみに始めたバクチが大流行し、毎夜のように賭場が開かれ、村のお父っあんや若い衆たちが、お囃子の練習を口実に賭場へ出かけ、太鼓を交替で叩きながらバクチをし、賭場に金貸しの手代が出張していたという話も残っています。
そのため、高円寺は勿論、和田、堀之内、成宗、田端などで、田畑を手放した農家が多くありました。
藍の関係業者は、明治27年の日清戦争から日露戦争までの10年間は、軍用品の染色で大変景気が良かったのですが、明治38年にドイツからバイエルの化学染料が輸入されたため、価格が一挙に大暴落し・・・。以上。
藍玉を扱っていた重松が所沢街道を通って阿佐ヶ谷・高円寺方面まで出向いた可能性もあると・・・現代では考えられないお囃子の練習風景・・・。
田淵流が源流となると青梅街道が一本の線になる・・・各自、色々な仮説を立てていただければと思います。次週に続く?!(笑)

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