日本における原子力発電所立地受入れの政治過程 (3)関西電力大飯原子力発電所増設をめぐる政治過程 2  政治のはなし

2 ケース20)
(1)増設前史
 大飯町は福井県のほぼ西端、若狭湾国定公園の美しいリアス式海岸をもつ、人口およそ7千人のまちである。福井県の若狭湾沿岸は「嶺南」と呼ばれ、北陸トンネル以北の「嶺北」とは歴史的にも異なる発展を遂げてきた。JR北陸本線、北陸自動車道が貫通する嶺北(とりわけ、福井市を中心とする福井坂井地方、鯖江市・武生市を中心とする丹南地方)に比べ、嶺南は地理的にも経済的にも県内でも周辺的地位にあることは否めない。県の人口は82.7万人(95年10月国勢調査)。基幹産業として繊維産業が地域経済を支えてきたが、構造不況にあえいで久しい。原子力発電所が立地しているのは嶺南地方のみであり、15基が集中している様子を形容して「原発銀座」と呼ばれることもある。
 その大飯町で原発誘致の話が具体化したのは、1969年1月1日、時岡民雄大飯町長が町議会や地元関係者に原発建設計画を示して意向を打診し、引き続いて町長が建設候補地の調査願書を県に提出したことに始まる。建設候補地の大島半島には陸路がなく、町役場のある本郷地区や小浜へ出るためには渡し船を利用するしかなかった。道路建設は大島半島の住民にとっても町行政当局としても、いわば悲願であったのである21)。しかしながら、当時の大飯町は深刻な財政危機に見舞われていた。53年の台風による風水害は町の財政に深刻な影響を及ぼし、57年からは地方財政再建整備法の適用を受けており、とても町の単独事業での道路建設どころではなかった。さらに町の人口流出や第1次産業従事者の高齢化は深刻であり、70年には過疎地域の指定を受けている。財政危機と過疎化という2つの大きな課題を背負ったこのような町勢からの脱却を目指し、町の活性化と地域振興をはかるための施策として、原発誘致計画が打ち出されたのである。原発建設反対の声もあがったものの、町内では大きな勢力となることはなく、建設に向けての手続きはスムーズに進行する。69年のうちに町議会が原発誘致を決議し、大島漁協と関電との漁業補償仮協定締結、地主代表者と関電との土地売買協定締結が済む。70年中には関電が県に対して建設協力願提出、県は協力する旨を回答し、10月には国の電源開発調整審議会において大飯発電所1・2号機が承認されるというスピード決定ぶりであった。
 しかし、71年5月、米国原子力委員会のECCS実験での欠陥発見が報じられると、これが町内での原発反対の動きへの追い風となった。町が全面的に関電に協力するという内容の、町長と関電との極秘裏の「仮協定書」(69年4月締結)の存在が明らかになったこともあって、町内の原発反対の空気は一気に盛り上がり、町政は大きな混乱に陥ることになる。71年6月には「大飯町住みよい町造りの会(町造りの会)」が結成され、町長に建設中止の要望書を提出する。町議会も「原子力発電所の安全性に関する意見書」を採択し、町長の政治姿勢への不快感を表明する。7月に入り、町長は「仮協定書」の破棄を表明するが、混乱は収拾されず、町造りの会は町長のリコール署名運動を開始する。さらに区長役員会も町長退陣要求を決定するに及んで時岡町長は辞職し、次の町長には永谷良夫氏が無投票で選出された。新町長は町議会で「原子力発電所誘致が大飯町にとってプラスになるかどうか、もう一度細密に検討し直されなければならない」と発言、そして町政懇談会の席上でも、原発工事の一時中止の意向を表明し、県と国に対して関電への大飯発電所原子炉設置許可を延期するよう陳情する。町長のこのような態度に対して、町議会は議員提案の工事一時中止決議を否決し、大島地区では「大島を守る会」が結成されて原発推進請願署名運動を開始するというように、原発建設推進の動きが町内で始まる一方、原発反対の署名運動も行われ反対運動も活発化した。この混乱を収拾すべく、72年3月、町長と町議会が中川平太夫知事に紛争収拾あっせんを依頼する。これを受けて知事が「平穏に建設を進める」という前提であっせんを進めた結果、4月には県・町・関電三者による工事一時中止の基本協定が結ばれ、7月に安全協定および地域振興協定が締結されて、建設工事は再開されることとなったのである22)。
 このように、大飯1・2号機建設の際には、大きな町内での紛争を引き起こしたものの、関係するアクターは基本的に町レベルのアクターと電力会社に限定され、知事は(建設を前提としているとはいえ)中立的仲裁者としての立場を期待されてのみ参加することが可能であった。また、手続き自体は1年半、また紛争収拾まででも2年半と、かなりスムーズに事態が進行したという印象を受ける。しかしながら、権利関係についてはすでにあらかた整理がついているために新設よりもスムーズに手続きが進行することが予想され、しかも実際の過程においても大きな社会紛争を生じさせることなく進められた大飯3・4号機増設の意思決定には、これよりも長い時間を要することになるのである。
 さて、72年から本格的に大飯原発建設の工事が始まり、79年3月からは1号機が、同年12月からは2号機が、相次いで運転を開始した。着工以来大飯町の歳入は国庫支出金と寄付金を中心に著しい伸びを示しており、運転が始まった80年度からは地方税収入が一挙に5倍に拡大し、普通交付税不交付団体となった(図表5)。ここに新たに関電が3・4号機を増設する計画を持ち出し、大飯町に事前調査の申し入れを行う。81年8月のことである。折しもその年の4月には、同じ福井県嶺南地方の敦賀市で原発から放射能が漏れ出し、旅館のキャンセルが相次いだり、福井県産の海産物が関西や中京の市場から荷受けを拒否されるという被害が出たばかりであった。つまり、関電の大飯増設問題が浮上した時期には、原発が立地するメリットもデメリットも、また原発立地の効果の具体的な実体も一通り福井県や大飯町には(自治体当局にも住民にも)把握できていたことと考えられる。このことは、80年代前半という時期における原発増設の意思決定過程において、これまで「建て前」で粉飾されたことによって見えなかった部分に代わり、原発の負の側面まで見据えた「本音」の部分が表面化してくる、すなわち各アクターが原発に対して与えている評価がそのまま行動となって現れてくる、という可能性を示唆している。次節において筆者が大飯増設問題を扱おうとするのは以上の理由からである。
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