日本における原子力発電所立地受入れの政治過程 (3)関西電力大飯原子力発電所増設をめぐる政治過程 3  政治のはなし

(2)関西電力大飯発電所3・4号機増設
 関西電力から、大飯3・4号機増設のための事前環境影響調査の申し入れが、大飯町、大飯町議会、大島漁協の三者に対して行われたのは、1981年8月25日のことであった。こめ年の4月には日本原電敦賀原発で放射能漏れ事故があったばかりで、その責任問題や補償交渉などが未解決であっただけに、この申し入れは各方面に波紋を投げかけた。また、県も関電の頭越しの動きに不快感を表明する。原発難設に反対する諸団体は、27日に緊急の対策会議を開いた。この段階で各アクターはどのように原発推進をとらえていたのか整理してみる23)。まず大飯町であるが、猿橋貫一町長は「手元に預かっている段階」として慎重な態度を見せる。ただし、大飯1・2号機があることによって町の財政は急激に拡大している上に、申し入れ直前の19日には、通産省が立地自治体に交付される交付金の財源を増やす措置を翌82年度からとる方針を打ち出しており、増設によるさらなる財政効果を期待するモチベーションが町としては高かったとみられる。大島漁協としては、すでに大飯1・2号機建設の段階で漁業権放棄の問題は解決しており、関電との交渉のテーブルにつくハードルはきわめて低いものであった。
 一方、福井県で積極的に原発を推進してきたのは、自民党と民社・同盟系の勢力、そして地元経済界であった。放射能漏れ事故を起こした日本原電敦賀原発が通産省から6カ月の運転停止処分を受け、原発が評判を落としたことに対して「巻き返し」をはかったのがこれらの勢力である。6月には、敦賀で「失地回復」をはかる大集会が開かれる一方24)、原発推進を求める34万人分の署名が集められた25)。ただし、県議会の圧倒的多数を占める県会自民党26)は、77年、敦賀市に建設の計画が浮上している高速増殖炉原型炉「もんじゅ」以降の原発の新増設を昭和60(1985)年までは認めないという「60年歯止め決議」を行っており、これが大飯増設を促進する上での障害となりうる可能性はあった。大飯町議会の多数を占める保守会派「政新会」に所属する町会議員たちも、町内の声に配慮しながらも、基本的に原発推進の姿勢であった。また、原発新増設で最終的な「可否判断権」を持つ県は、「安全が確保されること」「住民の理解と同意が得られること」「地域の恒久的福祉がもたらされること」という「原発三原則」を原発受入れの指針として掲げており、中川平太夫知事はこのうちの地域の恒久的福祉に対して国の関心が低いことに不満を抱いていた。この不満は大飯増設について知事の判断が求あられる段階になって表面化する。なお、中川知事は「県民党」を名乗り自民党とは一線を画しており、中川与党には原発反対の姿勢を貫く社会党も含まれていた。
 他方、原発に対して反対の立場を表明している団体が福井県下にはいくつか存在した。立地自治体の大飯町には「大飯町住みよい町造りの会(町造りの会)」、敦賀市には「高速増殖炉などの建設に反対する敦賀市民の会(敦賀市民の会)」が、隣接自治体である小浜市には「原発設置反対小浜市民の会(小浜市民の会)」といった団体が、横の連絡を密に取り合いながら積極的に活動していた27)。また、県議会や知事に対する申し入れを行い、全県的な行動を起こすにあたっては、「原発反対福井県民会議(県民会議)」がその中心的役割を担っており、町造りの会などは幹事団体としてこれに加わっていた。こうした団体には、個人での参加以外に政党や労組レベルでの参加があり、地方議員や専従職員が中心となって日常的活動を支えていた。全国的に見ると、社会党系勢力と共産党系勢力は、反核運動をめぐって分裂し、原発についての認識も異なっていたのだが、福井県では両勢力ともに強いとはいえないという事情もあって28)「社共共闘」が行われ、デモの時には別々の方法をとったりはしても、普段は一緒に活動していた。「放射能は危ない」「なんとかして止めなければ」という参加者個々の危機意識によって、原発という共通の敵の前で「大同団結」が行われていたのであり、デモ・集会の際にはこれに都市部の新左翼系運動が合流したりもしていた。デモや集会を行って世論を喚起し、署名を集めて首長や議会に申し入れるというのが一般的な活動方法であった29)。
 さて、8月27日の原発反対勢力の緊急対策会議においては、一連の手続きの中で反対派の立場から地元が介入できるのは、差し迫っている事前調査受入れ判断のタイミングと、電源開発調査審議会の地元同意取り付けの時期という2つの機会しかないことが指摘され、また、すでに大飯町は町財政や施設面から雇用にいたるまで「関電べったり」であることが公然の事実となり、住民が本音を明らかにできないという認識で一致した。こうしたことから第1回目のチャンスとして、調査受入れについての審議が行われる予定である9月20日過ぎからの定例町会を前に、各種団体向けの「草の根作戦」によって、町民に増設反対の再認識を促して運動を盛り上げていく方向で進められることになった30)。そしてこれ以降、反対運動は、地域での勉強会や広報活動を地道に展開する一方で、重要な手続き上のタイミングにはデモや集会、ハンストなどを行って世論へのアピールを試みる戦術をとる。しかし、関電からの申し入れを受けた三者のうち、町長と大島漁協は9月の段階で同意を表明し、残った町議会も10月16日の本会議で調査促進決議を賛成多数で可決した。ただし、まだ町内の反対の声も大きく町民のコンセンサスづくりが残っているとして、猿橋町長は町政懇談会を町内30カ所で開催し、町民に理解を求めていく方針を示す。
 一方県レベルではこの事前調査についてはまだ慎重に対応されていた。一つには、この時期県としては敦賀原発事故問題と「もんじゅ」建設問題の方がより重要な課題であったということも理由としてあげられよう。知事は「敦賀原発事故に伴う補償問題が解決し、住民の信頼が回復されるまでは言及できない」と9月県会で表明し、県も「大飯町や関電から正式な話があるまでコメントできない」と慎重な構えを見せている31)。12月になると自民党県連が原子力部会を開き、敦賀原発再開と「もんじゅ」建設問題とともに大飯増設問題について協議し、地元からの陳情が出た段階で改めて協議することで決着する。
 12月8日、猿橋大飯町長が定例町会で正式に受入れを表明したことで、町内での調整に決着がつけられ、10日には事前調査促進を求める陳情・請願が町長から知事と県議会に対して提出された。さらに翌82年2月15日の関電から県への事前調査入りの申し入れを受けて、これらに県として同意を与えるかという形で、大飯増設問題が県レベルでの争点として公式に浮上する。3月の定例県会の会期中に県会自民党は総会を開き、争点の「もんじゅ」受入れと大飯増設の取り扱いを協議し、「もんじゅ」については中川一郎科学技術庁長官32)の示した「県益」33)を評価して建設に同意し、・大飯増設についても立地を促進させることで一致した。この場では執行部が「60年歯止め決議」解消を提案し34)了承され、これによって大飯増設を県として検討する上でのハードルは一気に低くなった。3月29日の繰り越し県会環境対策特別委員会で、大飯町長および自民党県連大飯支部から出されていた「関西電力大飯原発3・4号機増設に伴う調査促進に関する請願」を賛成多数で可決し、続く本会議でも賛成多数で可決する35)。5月には県も、知事が「もんじゅ」建設に同意したことで、後回しにしていた関電の事前調査入りの手続きを認めた。「地元の大飯町がすでに了承し、県会でも事前調査入りの請願が採択されて」いることから「原子力行政全般の流れ」を勘案してのことであり36)、「調査と建設は別」の立場をとってはいるものの、建設を前提とした事前調査入りを了承したことで、大飯増設問題は大きく前進したことになる。
 関電が調査を進める間、反対運動は、関電の内部告発文書を入手して公表したり、科技庁傘下の特殊法人である動燃(動力炉・核燃料開発事業団)が敦賀市の神社に寄付行為を行ったことに抗議したりと、原発企業のイメージ戦略に対抗する一方で、県議選立候補者や大飯町長に対する公開質問状を送付するなど、しばしば一般市民に対するアピールを行い、世論の喚起を促している。議会では社会党あるいは共産党の議員がたびたび質問に立ち、知事や町長に対して同意を与えないよう要請している。そして、関電の調査終了後、83年9月、「原子炉設置に影響を及ぼす断層はない」などという事前調査報
告書が、そしてそれに引き続いて大飯原発3・4号機の増設願が関電から提出されたことで、手続き上の第2回目の機会が訪れると、「住民の意思を無視した手続き」に反対し「住民の本当の意思を確認する」ために、住民投票を実施するように働きかける。大飯町では町造りの会が住民投票条例制定の直接請求手続きを開始し、署名集めを始めた37)。これに対して町議会の保守会派「政新会」は「住民投票は町内を混乱に陥れるもとであり必要ない」という内容のビラを町内全戸に配布した。また猿橋町長もしばしば「住民投票は不要」と発言してこの動きを牽制する。
 このような大飯増設の動きに対し、当の大飯町民はどのような反応を示したのだろうか。町造りの会が集めた署名は、最終的には665人(うち有効は609人)分となった38)。大飯町の有権者数が4,682人であったから、およそ7分の1に相当する数である。一方で、町と町議会は『町政懇談会を町内の各地区で開催して回り、原発増設の概要と事前調査の内容の報告を行っていく。この町政懇談会に出席したのは655人であった。一町民として直接意思表示できるこれら2つの機会に関わった町民の数は、両方合わせても有権者数の半数にも満たず、町民の多くは原発増設をめぐる町内の動きを静観していたと考えてよいであろう。ただし、この当時すでに多くの町民が原発関係の職に就いたり補償金を受け取ったりしており、その親族を含めると、1,600戸余りの大飯町で原発にまったく縁のない生活をするということは大変難しい状況であった。意思表示をしなかった過半数の町民にとって、原発増設は言わずもがなであったのか、それとも口にするのをはばかられることであったのか、これについては推測するよりほかはない。
 ところで、大飯町はこの時期「第2次町振興計画」の基本構想を策定中であった。これは95年を目途として、上下水道の整備、多目的ダム着工、観光開発、企業誘致や総合運動公園建設のための公有水面埋め立て、を4本柱として進められる予定のものであり、この財源については、3・4号機増設による交付金や地方税による収入が見込まれていた。この計画案は9月町会に町長から提出され、猿橋町長は、町振興計画を早く実現せよという声に応えるべく早く増設の申し入れをしたいと表明し、振興計画と増設受入れをワンセットで考えていることを明らかにしていた。すなわち、町としては原発の財政的メリットを強く意識して原発問題に対処していることがはっきりとここに示されたのである。この計画案は84年1月17日町会で可決され、実質的に3・4号機増設が町として同意された。正式な同意は2月1日の町会で増設同意案が可決されて行われ、14日には町長が助役、町会議長、議員らとともに福井市に赴き、中川知事に口頭で建設に同意するように要請するとともに、県議会に対しても池端昭夫議長に建設促進の請願書を提出した。ここで大飯町としての増設問題への対応は事実上終了する。
 一方で県としても、嶺南地方の地域振興を重要課題として認識し、84年早々から、そのための手段として地域振興整備公団の「中核工業団地」誘致に乗り出している。その背景には、電源三法交付金の使途が、道路、水道、教育・文化施設などに重点がおかれているために、嶺南地方の産業構造を高めて住民の就業の場を確保するにはいたっていないという認識があり、そのためにも、国に対して働きかけることによって、中核工業団地誘致などによる産業基盤を含めた広域整備を行い、原発と地域との恒久的な共存の関係を築き上げることが必要である、という認識があった39)。84年1月に中川知事は上京し、牧野県企画開発部長とともに小此木彦三郎通産相を訪ねこの問題について陳情を行い、国土庁と地域振興整備公団に対しても、84年度予算に工業団地調査費を復活させるよう強く働きかけている。この年の国の予算獲得には失敗したものの、県予算には独自の調査費がつけられ、知事の工業団地誘致に対する意欲が示された。このように、県としては嶺南の恒久的振興に主眼をおいており、即座に原発増設に同意する状況にはなかった。そのため、増設の早期促進を図る大飯町や自民党との問に微妙な温度差が生じていたといえる40)。3月県会の予算特別委員会で自民党議員からの質問を受けた知事は、「地元(大飯町)を尊重し三原則で結論を出す」が「私は県の責任者という立場で意見を述べる。決断を下すまでに十分調査、検討を加える」41)と表明し、あくまで増設については慎重な姿勢を崩さなかった。結局県会自民党としては、大飯増設問題については委員会での審議に一任するということで、総務教育委員会での審議に入ることとなった。3月22日の同委員会では、深夜に及ぶ審議の末、大飯町長などから出されていた増設促進請願など2件が採択され、県民会議などからの計画に反対する陳情など6件が不採択となった。続く本会議でも賛成多数で委員会の採択通り決定し、ここに増設問題についての県議会の態度が決定する。
 増設に向けての手続きは進行し、84年4月、関電からの環境影響調査書と自然環境調査報告書が県に提出され、環境影響報告書に関する大飯町での地元説明会が行われた。関電は質問に対して終始スムーズに回答し、安全面をアピールしている。県はこの報告を受けて、自然環境保全審議会に諮問し内容の検討に入り、塚野善蔵福井大名誉教授を部会長とする自然公園部会から指摘された問題点について修正を加えた関電からの縮小案が9月同審議会で了承された。また、通産省主催の第1次公開ヒアリングが11月16日、反対派が参加をボイコットする中で行われた。そして公的手続きの上では、あとは電調
審で大飯3・4号機を基本計画に組み入れて正式に国家プロジェクトとして位置づけるだけとなった。この基本計画組み入れの際には知事の意見が必要とされているために、事実上中川知事の最終判断を待つのみとなったのである。手続きが進むこの間にも、反対運動は有効な手だてを講じることはできないでいる。県民会議が、県に対し、環境影響調査書・自然環境調査報告書について「内容が非科学的でずさん」として公開質問書を提出したり、公開ヒアリングを前にして町造りの会が町長に「形骸化したヒアリングに同調すべきではない」と開催の中止を申し入れたり、また、環境影響調査書の地元説明会や公開ヒアリングには参加せず、会場周辺でビラまき・デモ・集会を行い、拡声器でシュプレヒコールをあげるなどの行動を起こしているものの、いずれも目立った反響があったようには見られない。このように、反対運動と行政当局や電力会社との直接の対話はなく、共通の土俵が設定されることも仲介者が現れることもなく、両者の主張は平行線をたどったまま淡々と手続きが進んでいくという状態であった。また、県民会議は「公開ヒアリング阻止闘争本部」を設置し、小浜で独自の住民ヒアリングを実施したり、また小浜では郵送による市民投票を実施したりもしている42)。しかしながら、こうした嶺南での反対運動が、全国レベルはおろか、福井県内においても耳目を集めて争点化された様子はなく、地域的に限定された反対闘争であったということができよう。
 ところで、県として嶺南の開発に取り組むことが表明されたことで、大飯原発増設に関係する当事者は嶺南全体にまで拡大し、これをきっかけとして独自の地域振興策を打ち出そうとする試みが始まる。大飯町に隣…接し、敦賀と並んで嶺南の中心都市である小浜市は、中核工業地帯の誘致に名乗りを上げ、用地買収に乗り出した。小浜市は、上中町、三方町と並んでその候補地にあげられるのだが、土地単価や敷地面積の点で適地を見つけることができず、誘致を事実上断念し、かわりに用地買収を進めてきた用地に大学を誘致する方向で検討を進めることになった43)。計画は、関西から理工系大学を誘致し、
そのための100億円以上の費用の一部は関西電力からの寄付によってまかなうというものであった44)。県もこの動きを支援し、一時は京都の私立大学が候補として浮上したが、最終的には福井県立大学の小浜学舎が設置されることで決着する。
 こうして、いよいよ知事が判断を下す環境が整いつつあった。公開ヒアリングが終了し、電調審での大飯3・4号機基本計画組み入れが近づいた84年12月の定例県会では、知事は県会自民党から意思表示を促される。知事は答弁の中で、「国の理解ある対応を求め、真の地域の発展は何かを見極めていきたい」「いろいろ要望しているが、国においては、恒久的福祉に十分理解していただいていない」「(判断材料は)個々の具体的なもので考えるのではなく、恒久的福祉に対する理解だ」45)と、嶺南振興に対する国の認識とのギャップにいらだちを示し、年の瀬の県会自民党執行部の通産省資源エネルギー庁などへの陳情とは別に、年明けの85年1月25日、通産省を訪れ、村田敬次郎通産相に原発立地に伴う地域振興策を要請した。要請の内容も、県会自民党が申し入れた電源立地促進対策交付金制度の拡充や電源立地特別措置法の制定などの「県益」実現の要請に加え、中核工業団地造成に力点をおいて嶺南振興を強調したものであった。この会談の結果に満足した知事は46)、1月30日、「大飯3・4号機を本年度電源開発基本計画に組み入れることに異議はない」という2週間前に照会を受けていた電調審への意見書を経済企画庁に提出し、2月15日、関西電力と県との安全協定に基づき、正式に関電に対し増設を了承した。こうして大飯増設は県レベルの意思決定を終え、あとは国による安全審査を経て、着工を待っばかりとなったのであるが、この席上での沢村県企画開発部長の関電に対する次のような申し入れは、県として原発受入れを国策への協力としてとらえ、その見返りを強く意識したものであるということを、端的に表しているのではないだろうか。

「関西電力の原発はすべて本県に立地していることを十分認識し、安全性確保につとめ、地域振興に寄与してほしい。」
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