トランス・サイエンスとイラン経済制裁と原子力発電所  読書メモ(09.6〜)

 EUもイランへの経済制裁に踏み切ることになった。イランはホルムズ海峡封鎖をちらつかせている。海峡封鎖が行われれば、原油の8割を中東に頼る日本にとってダメージは明らかだ。
 ギリギリまで腹の探り合いが行われるのだろうが、万が一、ということもある。実際に海峡封鎖が行われなくても、保険料や輸送費の高騰は避けられまい。
 どうしても原発を動かしたいという人たちは、電力供給を過小評価して電力不足を煽るという姑息なことをやったそうで、どうやらまだ全然反省していないらしいし、原子力はまだ人間がコントロールできる技術ではないということは百も承知で、そしていつ次の大震災が来てもおかしくないということもわかった上で、海峡封鎖に備えて原発を動かす可能性について議論することは、必死になって新エネルギー開発を進めることと並行して、夏までに必要なことではないかと思う。これこそ国民投票にふさわしいテーマではないのだろうか。
 これは、原発の技術論ではなく、どのような社会のあり方が望ましいかという、きわめて政治的な問題である。

小林傳司(2007)『トランス・サイエンスの時代』NTT出版
 BSE問題や原発問題を例にあげて、科学と政治の交錯する「トランス・サイエンス」という「科学にとって問うことはできるが、科学によっては答えることのできない問題郡からなる領域」(ワインバーグ)について、私たちがどう向き合うことができるかを論じる。
 ここでは「市民性の育成」がキーワードのひとつとして登場する。つまり、科学者・専門家に解答を求めることはできず、その責任を科学者の負わせることも困難であり、また手続的な瑕疵がなければ合法とする現在の司法判断の限界も踏まえ、考える「素人市民」の政策過程への参加が期待される。
 静岡県の河川改修をめぐる会議をリードしたNPOによれば、「日本の総合学習のねらいは、どちらかといえば、個性を生かす教育の延長線上で、個人としての「生きる力」に重点が置かれている。アメリカのサービスラーニングは、むしろ「市民性の育成」という社会性に重点が置かれている」と指摘される(p.210)。
 これが「シティスンシップ教育」のゴールと考えてよいのだろうか?
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ドラマを見て初めて、西山事件について調べてみた  読書メモ(09.6〜)

 恥ずかしながら、もっくん主演のTBSドラマ『運命の人』が、山崎豊子原作で、外務省機密漏洩事件(いわゆる西山事件)を描いたものだとは、見るまで知らなかった。
 この事件については、高校の政治経済の教科書にも、国民の知る権利と取材の自由をめぐる裁判として登場するが、「最高裁は、取材の自由については認めつつも、その限界について示した」という解説がちょろっとついている程度である。

 ふと本屋に入ると、店頭に置かれていたのがこれ。
澤地久枝『密約―外務省機密漏洩事件』(岩波現代文庫、2006年)
(もともとは中央公論社から1974年に出版したものらしい。)
 沖縄密約をめぐる外務省機密漏洩事件を、情報漏洩に手を貸した外務省女性事務官と同時代を生きた女性の視点から描いたものである。

 むちゃくちゃな裁判ではないか。

 政府が国民に嘘をついた。政治家と官僚が徹底的に隠そうとし、検察は男女の情事のレベルに問題を矮小化し、メディアが煽り、裁判所がそれを追認した。
 そもそも「国家機密」とは国民の生命と財産を守るために外国のスパイに対して守られるべき情報であり、政治家や官僚のウソは機密ではない。政策実現のために一時的に伏せられるべきものであっても、それは時間が経てば明らかにされなければならず、「20年経って調べたら全部処分していましたのでわかりません」というのは「機密」でもなんでもない。
 そしてそれを暴こうとすると、完膚なまでに葬り去られ、その後、毎日新聞社が倒産に追い込まれた。ドラマにはナベツネであろう人物が、政界を泳ぎながらのし上がっていくようすが対照的に登場する。

 おそらくこの事件のあと、日本から「政治記者」がいなくなってしまったのではないか。官房機密費を受け取りながら、記者クラブの中で政治家や官僚たちと共犯関係を結ぶようになったことで、国民の目となり耳となって、政治家や官僚のウソを見破る役割を果たす人がいなくなってしまったということではないか。

 とすると、原発をめぐる「報道のウソ」は、何も今始まったことではない。
 沖縄密約をめぐり、ライバル社が政府のお膳立てに乗って、毎日を潰した。それと同じことではないか。

 なお、民主党政権も最初の3ヶ月はこの問題に取り組み、自民党政権が否定しつづけた密約の存在を明らかにした。その後の腰砕けぶりと比べて、これだけは評価してよかろう。そして、情報公開こそが民主党に託された重要な政治的使命のひとつであったはずなのに、すべてに頬被りを決め込んだ時点で、民主党は自民党と同じ穴のムジナとなったということか。
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私学の存在意義と生徒募集  私立中学・高等学校について

 中学後期入試の合格発表があり、表の道路の交通整理を担当した。
 後期入試の実質倍率は6倍を超えたので、ほとんどの受験生が不合格となる。今回受験した子どもたちは、記念受験しているコを除くと、すでに1〜2回不合格になっているわけで、うちがダメだと、あと残すところもわずかとなる。
 そんなわけで、涙を浮かべて校門を出てくる子どもや、どんより沈み切っている一家の背中を見送るのは、なんとも気が重い。

 もっとも、こんなにたくさんの不合格者を出せる学校はあまりなくて、定員確保に汲々としている私学は数多い。
 「私学として、自分たちがやりたい教育をするために、生徒を選びたい」という思いと、「経営のためには、一定数の生徒を確保しなければならない」という現実とがあって、両方を満たすことは、少子化が進む中、どんどん苦しくなっていく。
 後者は文字通りの経営問題である。
 それでは、経営のために前者を放棄したとき、その学校の「建学の精神」はどうなるのか。存在意義はどうなるのか。他方、生徒が集まる学校が存在意義のある学校だという声もある。

 コダックが経営破綻した。フィルムに最後までこだわり続けたためだという。一方、富士フィルムは経営の多角化によって生き残った。
 企業はそれでいいのだろう。しかし、学校は? 私学は?
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私学関係の新聞記事が3本  私立中学・高等学校について

新聞に教育関係の記事が3本も載っていたのは珍しいので、職員室でもちょっと話題になる。

(1)東京大学、秋入学移行へ京大ら11校と協議会設置
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120120-OYT1T01101.htm

(2)京都府、私立高授業料補助:奈良・兵庫通学でも 大阪は協議続行
http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20120121ddlk26100435000c.html
 (大阪府と京都府が、群を抜いて私立高校生を抱える家計に対する支援が分厚いのは、意外と知られていない。)

そして職場的に関心が集まったのが、この記事。どうやら読売新聞だけが扱ったようである。

(3)同志社香里中学校、併願校の合否、学習塾名を調査
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120121-OYT1T00180.htm
(公平性が問題なのか、個人情報の扱いが問題なのか、これを書いた記者は何が言いたいの?)
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私立中学校受験に思う  私立中学・高等学校について

 先週末にスタートした関西の受験シーズンも、そろそろ最終盤。受験生の会話にも「どこどこに受かった」「次はどこどこ」というのが聞こえる。関西が終わると、中部、関東とシーズンが続く。これから鹿児島に遠征するコもいるようだ。
 「ミッション・インポッシブル」を観たせいだろうか、入試の監督をしながら、超小型カメラによるカンニングがもしも行われていても、見破れる自信はないなぁ、と思いながら、ぼんやり考える。

 少子化が進む中、私立中学校の定員は増えつつある。
 高校入学者数の減少は、私立高校の経営を直撃している。そのため、施設の共用が可能で、かつ教員免許という面でも重複の多い中学校を併設し、生徒の早期囲い込み、あるいは余剰人員の配置転換、さらには学校改革によるイメージ一新と新たな受験者層の開拓、といったことが目指される。
 子どもが減るのに、定員は増えて、学校数も増える。そのため、少しでも早く合格者を確保することと、何度も入試を実施して、追加合格者を確保することとが必要となる。つまり、延々とどこかの学校が入試を実施するという、高校や大学の入試で起きていることが、中学校でも起きている。
 これの何が問題かというと、制度が複雑になりすぎて、またどこを受ければいいのかもわからなくなって、個人の力ではどうしようもなくなってしまったために、結局、塾が持っている受験情報に頼らざるを得なくなる。公立小学校は「進路指導」なんてするはずもないので、なおさらである。
 この結果、塾の発表する偏差値ランキングと、それに基づく受験指導によって、受験者の動向が決まってくる。
 悪循環だと思う。しかし、同じ日程で一発勝負にするにしても、やはり塾の受験情報が重要であることには変わりない。

 小学校のお受験とは、また違う気がする。とりわけ首都圏の喧騒を耳にするに、あれはちょっとcrazyだと思う。
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デフレの正体は、やはり・・・。  世の中のはなし

 昨日の毎日新聞に載っていた、潮田道夫氏のコラムは、なかなか興味深い(「水説 金融と涙の水たまり」)。
http://mainichi.jp/select/opinion/ushioda/news/20120118ddm003070155000c.html

 日銀の白川総裁が、今月10日にロンドン大学で講演して、欧米諸国もまた、日本のたどったThe Long and Winding Roadをたどることになるかもしれない、という話をしたらしい。
 潮田氏はさらりと流しているが、ここで白川総裁が、日本の「失われた20年」を、前半ではバブル崩壊による借金返済に追われたためであったが、後半の低成長の主因は、史上先例のない急激な高齢化と人口減少のためである、という見解を示したことは、とても重要なことではないのだろうか。
 まさに、藻谷浩介氏の『デフレの正体』の説明そのものではないか。
 白川総裁によれば、2000年代の日本経済は、人口1人あたりで見れば、GDPの伸び率は他の先進国と遜色なく、生産年齢人口で見ればもっとも高かったという。それでもGDPは伸びなかった。
 とすると、日本経済は、ちょっとやそっとの景気刺激策では、総体としての経済成長はもはや望めない、ということでもある。大変な話である。
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私立高校に関する先行研究が、まとまらない。  私立中学・高等学校について

 戦後日本の私立高校についての先行研究を、研究ノートの形にまとめてみようとしているのだが、そもそも「私立高校研究」というものが成立するのだろうか。
 私立高校が登場する先行研究は、ぱらぱらとある。
 たとえば、ベビーブーム世代が押し寄せたとき、私立高校が定員を大きく上回る生徒を入学させたことで乗り切ったという話は、戦後高校教育史を語る上での常識みたいなものになっているが、私立高校そのものに焦点を当てては話が進まない。
 1970年代以降に顕在化した「学校間格差」についての研究にも、私立高校は登場する。
 私立高校の立地、私立高校の各国比較も、国立教育研究所が30年ほど前にやっているが、それっきりになっている。
 私立高校教員については、20年ほど前の研究があるが、それもそれっきり。
 私学助成についての政策過程研究は、教育行政学の方面からのアプローチがあるものの、なかなかその後の展開がない。私学助成と憲法89条との関係についても、憲法学によってなされているし、私学教育の自由については、教育法学で先行研究はある。
 私立中学校や私立小学校に関しては、「公立学校からの逃避」という文脈からいくつか見られるが、私立高校とはやはり性格が違いすぎる。私立の小中は「上級財」として、私立高校とは区別して考えなければならない(一部の私立高校は上級財だが、そうでない高校の方が多いかもしれない)。
 なんだか、カエルやウサギの置物だとか、あるいはタイガースグッズだとか、そういうものを片っ端から買い集めて部屋に飾っている、そんな気分になってきた。
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公立高校の凋落はほんとうか?  読書メモ(09.6〜)

 小川洋2000『なぜ公立学校はダメになったのか』を、今一度読み返す。
 「高校の序列が社会科位相の反映であったのならば、社会の変化が高校の序列を変えたのではないか」(p.6)という問題提起の上で、埼玉・東京・神奈川の3都県における高校の序列構造の変化を、高度成長期の人口流入をキーとして説明する。公立高校は政策の失敗で「凋落」したのではない、というのが結論のひとつである。
 この見解は、同時期の関西圏や中部圏でも成り立つのだろうか。
 また、90年代以降の人口減少期においてはどうなのか。

 もっとも、この見解はこの本が出た後もあまり浸透しておらず、公立復権に鼻息の荒い御仁はもとより、私学関係者からも「公立の政策の失敗で私学が盛り上がった」という声を耳にする。本当のところはどうなのだろうか。

 佐藤香2004『社会移動の歴史社会学』も社会移動が戦後の学校と職業の関係に及ぼした影響を、東京を中心に描く。
 このあたりをもう少し丁寧に読み直して、年度内にきちんと文章化したい。
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入学試験  学校のはなし

 入試の試験監督で、いろいろと注意を読み上げる。
 受験生を番号で呼んで匿名化し、不正行為を定義して周知徹底する。その上で試験を一斉に開始して終了し、公平性を担保する。
 なるほどなぁ、学校と監獄は、規律・訓練型施設という点では共通するが、公平性の部分はともかく、匿名化して時間管理するあたりは、まさにその極致という感じがする。
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学校図書館について思っていることのメモ。  学校図書館

 先日、お世話になっている先生から、「図書館がなくてもいいと思っているようだが、それならどういうビジョンを持っているのか?」という問いかけを受けた。
 「図書館が必要条件だとは思わないが、図書館がしっかりしていないと困る」という答え方をしてみたものの、自分でもしっくりいかない。

 学校図書館を類型化してみようというアイディアは、同志社大学で開かれた一昨年の図書館情報学会のときの雑談に由来する。これをまとめてみることはできないか、というのが、今やっていることに直接つながる話である。
 これがうまくいっていない。論文にしようとしても、まとまらない。

 そもそもの問題意識は、図書館長時代、そして私学図書館協議会の副会長時代のさまざまな経験に由来する。

 たとえば北部のある先生は「うちの図書館なんて、見てもらうもの、何もないですわ」というのが、口癖のようになっていた。また、別の用事で、北部の学校を何校か回ったりして、「北部の学校が協議会に出てこない」のではなく、「出てこられない」あるいは「出てきても何も得られないのかもしれない」と思うようになった。
 その一端が、図書館の研修会で「すごい学校」ばかりが紹介されることにあるのではないか、と思った。
 そのような思いは、別に北部の小さな学校に限らず、たとえば関東の進学校での実践を聞いても「それはあの学校だから」と思ったり、図書館立て替えに関わったことを機に図書館に関わり続けることになった先生の話を聞いても「それはその先生の置かれた環境が特別だから」と思ったりする自分がいて、他校の実践を聞いても、うちとは事情が違うから、となってしまうのである。
(もっともそれは、図書館だけに限らず、社会科の授業実践報告を聞いてもそういう傾向がある。)

 また、学校経営が困難になったとき、図書館の予算と人手を守ることが、どれだけ学校全体にとってプラスになるのだろう。
 ある学校では、急激に生徒数が減少し、これに端を発する諸々の「改革」が進められ、早期退職者が相次いだ。労働条件は悪化し、さまざまな悪循環の中で、図書館においても専任司書を嘱託職員に置き換え、司書さんは事務に回った。この問題をどう評するべきなのだろう。
 財政が危機的状況にある大阪府では、橋下前知事のもと、オーケストラ、博物館なども、リストラの対象となった。「文化事業」といえども聖域とはならないのである。同じように、学校が経営難になれば、人件費にも図書館予算にも手がつけられる。

 大逆転を狙って、悪質な学校コンサルタントに騙されて、何億円もかけて「情報教室」を導入して学校改革の目玉としたものの、その後も生徒募集状況は芳しくならず、経営がさらに悪化した学校の話を、組合を通してしばしば耳にした。図書館を発展的に「情報センター」化すること、あるいは学校全体の取り組みとして図書館を学校教育の中心に据える改革は、よほどの確信や資金的ゆとりがなければ、なかなか踏み込める代物ではない。

 以前、東京であった私学の全国研修会に出ていたときのことだが、関東近郊からは司書さんが参加し、遠方からは図書館長が参加しており、その「温度差」あるいは問題意識のズレが露わとなっていた。
 ある県から来ていた図書館長さんは、「ここには校長が来ないといけないのにね。結局、予算と権限をどうするかという話なんだから。身内で話しても仕方ない」とおっしゃっていた。

 図書館に人や予算を割けない学校があることは事実。そういう学校に目を向けたとき、どういう可能性があるのだろうか。
 図書館を離れて、保健室で応急処置や発達障害のことを勉強しながら、ぼんやり考え続けた2年間であった。

 このことを、どうやってまとめたらいいのだろう?
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オウムを知らない子どもたち。バブルを知らない若者たち。  世の中のはなし

 大晦日の午後11時50分、丸の内署にオウム真理教の特別手配犯が出頭した。今の中学生が生まれたのは、1996年。彼らはオウム事件を知らない。
 店に流れていた有線放送から、懐かしのユーロポップスが流れていて、Pet Shop Boysが「Go West〜〜♪」と歌っていた。あぁ、ベルリンの壁が壊れて、「西へようこそ」って看板が出ていたことを思い出した。今年の新成人が生まれたのは、このベルリンの壁が壊れた翌年のことになるらしい。その年末をピークにバブルがはじけ、日本は長い長い停滞の時代に突入する。
 そんな折、朝日新聞の社説への痛烈な批判を目にした。納得である。

「尾崎豊の再評価が不要な理由」(冷泉彰彦)
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/01/post-385.php

*朝日新聞の社説(2012年1月9日)
http://www.asahi.com/paper/editorial20120109.html
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現職教員に教育社会学は役に立つのか?  教育社会学

 教育社会学というのは、(おそらく)現職教員に人気がない(と思う)。
 理由は(きっと)「冷たい」からだ。
 教師の仕事は、「個性」と向き合うことである。それぞれに発達課題を抱え、それぞれの家庭の事情のもと、それぞれの人間関係の中で、かけがえのない「個」が成長していくのを支えることである。尾木ママ、夜回り先生、ヤンキー先生といった人たちはみな、「個」に寄り添う先生の典型である。
 だから、心理学的アプローチはとてもしっくりいく。実際、自分も仕事に必要だと思い、臨床心理学の本をいろいろと読み漁ったことがある。
 また、学校という組織は公立が多数であるから、基本的に学校の中は公務員の世界であり、行政の領域である。そのため教育行政学や教育法学、あるいは教育制度学、教育経営学といったものも、即効性がある。
 それに引き替え、教育社会学というのは、一見自明のような「個」の物語が、実は社会なるものに引きずられていることを暴くものであって、現職教員の目の前の仕事とは180度逆を行く。
 だから、教育社会学が、現職教員にとって役に立つかというと、まずは「NO」だろう。それを承知で、教育社会学を学ぶのであれば、それは視点をずらして新たな視野を与えてくれる。ただし、それで見えなかったものが見えてしまったとして、それが幸せなことかどうか、その保障はないのだけれど。
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教育社会学って、何をやってるんですか?  教育社会学

 「教育社会学って、何をやってるんですか?」と聞かれて、たぶん「教育について、社会学的に考えることだよ」という答え方がもっとも無難なんだろうけれど、それでは具体的に、どんなことを学んだらわかるようになるのか、ということになると、あまりちゃんとした説明があるとは思えない。
 教育社会学の教科書だとか、大学の教育社会学講義のシラバスを見比べてみてもいろいろあって、かつて日本教育社会学会の課題研究にもなったことがあるようだが、確固としたものが打ち出されたようには見えないので、実は、体系立った教育法あるいは学習方法はないんじゃないかな、という気がする。おそらく、教員採用試験対策あるいは就活の一般常識対策の参考書が、世間的に「教育社会学」とされているものなのだろう。
 たぶん、今いる多くの教育社会学研究者が、「教育社会学を研究したかった」というよりも「○○先生の本を読んで感銘を受けてこの道に進んだ」と答えることだろう。だからおそらく、教育社会学者と呼ばれる人たちが、何を考え、どのような研究を世に送り出し、その影響はどうだったのかを、列伝風にやっていくのが、いちばんわかりやすい概説書となることだろうと思う。
 イメージとしては、大嶽秀夫『戦後政治と政治学』(東京大学出版会)、あるいは小室直樹『経済学をめぐる巨匠たち』(ダイヤモンド社)みたいな感じ。竹内洋『社会学の名著30』(ちくま新書)があるが、あれをもっと研究枠組みに軸足を移して、時系列あるいは研究者相互の関係を明瞭にしたものが欲しい。
 また、学説史的なものだけではなく、たとえば現在活躍している教育社会学者10人を選んで、それぞれの研究を紹介するだけでも、教育社会学の全容(というかその広がり)が見えるのではないだろうか。
 しかし、自分で書く知識も技量もないので、どなたか書いていただけませんか?
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センター対策問題演習に思う。  学校のはなし

 今朝の朝日新聞を読んで、目が点になる。
 2016年センター試験から、「倫理、政治・経済」がなくなるかもしれないというのだ。まだ実施すらしていない科目をやめるだなんて、それなら最初から、こんな面倒な科目をつくらないでいただきたいものです
http://www.asahi.com/edu/center-exam/TKY201201060384.html

 さて、そのセンター試験まで2週間。昨日から高校3年生はセンター直前演習なるもののために登校してきている。12月ごろからそうだったが、センター形式の演習問題一色である。
 マーク式の問題というのは、問題数の割に紙面を食うので、大量のプリントを印刷せねばならず、コピー機や印刷機が唸りを上げていた。さらに解答解説プリントもあるから、ものすごい量の紙が吐き出され、そして1回さらっと解かれた後、多くがゴミとなる。
 数学の問題演習を見たときにも思ったのだが、これこそ、PDF化して配布したらどうなんだろう。タッチパネルで@〜Cの番号を触れば、すぐに○か×かが表示され、解説が出るようにすれば、いかがだろうか。あるいは、売上が低迷しているという任天堂DSでそういうソフトを作るというのは、どんなものだろう。
 これも持論なのだが、年度の最初の授業で、PCを自作し(できればタブレット式がいいのだが)、それを使って1年間あるいは卒業まで授業する。最低限のスペックでいいので、お手頃価格でできないものか。
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西岡武夫氏に聞いた話  教育のはなし

 たまたま手にした雑誌に載っていた書評についてのメモ。

 取り上げた本は、教育財政について、政府と家計の負担割合がどのように決まったのか、ということがテーマなのだが、「どこが政治経済学やねん」と軽く突っ込んだ上で、政治学者が教育学者による政策過程分析を批判するポイントについて触れて、「本章では、議事録がそれほど用いられておらずもっぱら審議会答申と白書に依拠する。しかし、それらの文言がアクターの政策選好や政治過程をすべて説明できるわけではない。」とコメントする(青木栄一,2010,「書評:末富芳『教育費の政治経済学』」『教育学研究』77(4))。
 しかし、残念ながら、一部の教育行政研究者によって行われているような、議事録をリストアップして、そこから何かを浮かび上がらせる手法もまた、政治過程論という観点からすれば、不十分であるように映る。
 政治過程とは、権力過程と政策過程とを包括し、議題に上がるか上がらないか、それ自身が権力過程の結果である。そして、教育政策そのものが、他の政策領域との関連で動いているのだから、教育政策の中で自律的に物事が進んでいるように見える時点で、すでにステージは次の段階に入っているといえるのである。
 自分がやる気がないから、好きなことが言えるのだが、だから、議事録を追うことは、審議会答申を読むよりはマシだが、それだけでは不十分である。良質の政治ジャーナリズムが、すぐれた政治研究となるように、公式な場での議論の外にこそ何かがあるのだ。
 たとえば、人材確保法をつくるとき、田中角さんは小学校の先生だけのつもりだったが、西岡・森・藤波・三塚・河野あたりの面々で、なんとか中学校の先生も入れようと動いてしぶしぶ認めてもらったり、内閣委員会に出すと潰されるから後藤田氏の入れ知恵で文教委員会に回すためにまどろっこしい法律の名前にしたり、なんてことをして、成立させたらしい(これは西岡氏ご本人からうかがった話)。もちろん国会議事録には何らかの言及があるかもしれない。しかし、そこには、角栄首相に掛け合った文教族たちは登場しない。
 議事録は最近はデータベース化されているから、簡単にキーワード検索をかけることができる。しかし、その裏側にあるものは、そこからは見えてこない。
 政策過程研究を生業とする教育行政学者たちの中には、官僚へのインタビューをする人はいるけれども、キーパーソンとなった政治家へのインタビューをしている人は少ない。
 なんだか木を見て森を見ていないように見えて、もどかしい思いがするのである。

追記:
 西岡武夫先生には、2004年の秋、学校五日制の成立過程についてお話をうかがいたい、とダメ元でメールを書いたら、その日のうちにご本人から電話がかかってきて、2時間、長崎のカステラをいただきながら、いろいろなお話をうかがうという僥倖を得たことがあります。西日の差し込む議員会館で、このような話をわかる人が、文部科学省にも自民党にも民主党にもいなくなっているということを、どこか寂しそうに語ってくださいました。その後、復権して参院議長になるとは、もしかするとご本人も予想されていなかったのでは?
 ご冥福をお祈りいたします。
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