(無題)  

最近、フェイスブックに書き込んでいます。

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4か月ぶり  

 今日は一日、研究のための本を読んだり、府立資料館で府議会会議録に目を通したりして過ごした。
 新年度が始まってから、調べものでぱらぱらを本をめくることがあっても、読書らしい読書は初めてのことであった。
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暑中御見舞い、申し上げます。  

なんとか夏休みに突入。授業も立命館の講義も一段落して、やれやれ。
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私立高校の抱えた「質」と「量」というジレンマ  

 日本の私立高校は、2つの役割を担ってきた。
 ひとつは、独自の教育理念に基づいた学校教育を行うというものである。宗教教育、高度な職業専門教育、クラブ活動や受験指導など、その内容は学校によって異なる。
 もうひとつは、公立高校の枠から漏れてしまう子どもたちにも、高校教育を受ける機会を与えるという役割である。とくに高校進学率が上昇傾向にあった時代、公立高校の量的な不足を私立高校が引き受けたという例がある。
 いずれも、公立高校では提供することのできない高校教育を、私学が担ってきたという点では共通する。乱暴な割り切り方をすれば、前者は「質」の面で、後者は「量」の面で、高校教育をサポートしてきたということができる。それは、戦前の中等学校においてもそうであったし、戦後の新制高等学校でもそれは変わらなかった。
(だから、前者しか存在しない私立中学校と、後者が一定の割合を占める私立高校とでは、同じ「私学」でも性質が異なる。)
 もっとも、公立高校に入ることが難しい生徒に、あるいは公立高校からはみ出した生徒たちに、居場所を与えて寄り添うことを目的とした私立高校など、「質」か「量」かと割り切ることは、簡単なことではない。

 公立高校の経営方針の根底には「標準化」がある。義務教育学校ほど顕著ではないが、教育費についても人事についても、学校ごとの特色は持たせながらも、一定の枠の中に納まっている。そもそも経営母体が共通なので、それぞれの学校は大企業の支店に相当する。
 これに対して、私立高校は「差別化」によって輪郭を浮かび上がらせなければならない。それは「個性化」であり「多様化」へのドライブを秘めていた。

 今、私立高校が直面しているジレンマは、私学の発足以来担ってきた「質」と「量」との両立が、高校全入時代における学齢人口の減少という事態に直面したことによる。
 私学教育の自由を強調しながら、今こそ建学の理念に立ち返って、困難に立ち向かおう、と檄を飛ばすものの、それは大いなる競争と淘汰の時代を自ら宣言することである。
 一方で、私立高校が多くの生徒を引き受けている(とりわけ都市部ではきわめて高い)。その議論は、私学助成の拡充や、高校授業料無償化政策の対象の拡大(「私学も無償に!」)というものにつながる。「Support but No Control」の要求は、このご時世に通用するかどうか。
 「私学も無償に!」は、「これだけの学費の格差があっては、公平な競争ができない。まずは無償にして、あるいはもっと学費の差を縮めて、そこから公立と私立とが競争するのでなければ、フェアではない」というのが、公式見解である。しかし、この主張が世論の支持を集めているとは、とても思えない。実際問題として、公立より私立の方が設備が充実しているところが少なくないこともあって、「それなら公立に行けばいい」となるからであろう。この点については、実は私学関係者の一部からも、プレミアがあるからこその私学らしさだ(それじゃ公立と変わらないじゃないか!)、として、私学無償化運動に反対する人もいる。
 そこで次に、「教育を受ける権利」「受けたい教育を選択する権利」の保障という、「私学教育の自由」を、教授する側から生徒・保護者の側に切り替えた議論が登場する。これは主体的に教育を選択する自由に訴え、「私学の無償化」へとつなげる主張であるが、実はこれは、「学校教育を消費財としてとらえる」という点で(私学助成運動の中では批判タラタラの)新自由主義的な発想ときわめて親和性が高い。
 私学教育を保障することは、民主主義を涵養するという点からも重要である。教育法学からも、そのような援護射撃は寄せられている。ただしこの議論は、「どの程度まで私学を残すか」という問題に解答を与えない。
 各公立高校を学校法人化し、経常費助成を拡充する一方で、教職員の雇用を各学校法人と結ぶことにして、事実上の「公設民営」学校を増やすことで、都道府県の教育費を削減することは可能である。ただしこの議論は、きわめて評判が悪い。「標準化」という公立高校の存在意義を否定するものであり、実際、公立病院が法人化や研修制度の変化によって悲惨な状況に陥っているのを見るに、地域間格差という点から得策ではないと思う。

 まだ考えがまとまり切っていないので、そろそろこのあたりで。
 とにかく、「住宅や医療のような国民生活を支えるインフラとしての学校教育が、どのようなセクターによってどのように供給されるべきか」という社会政策論として、学校教育の問題を整理したとき、やはり私立高校の果たしてきた2つの役割の大きさと、それゆえに今の私立高校が抱えているジレンマとを、改めて考えざるを得ないのである。
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今日の一枚  

阿蘇
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100系も見納め
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学会と体育会  

 ふと気づいたのだが、国体やインターハイなどの全国大会というのは、研究者でいうところの「学会」と同じものかもしれない。
 たとえばハンドボールの世界では、中心になっているのは日体大ハンドボール部OBであり、全国に教員として散り、協会の幹部となっている。関西には大体大もあるし教育大出身者もいるけれど、そうした人たちが年に一度、一同に会する機会が、こうした全国大会というわけである。
 つねづね「体育会の世界はよくわからん・・・」と思っていたが、そう思うと、少し見る目が変わってくる。というか、学閥といい、タテ社会といい、ポストと人事をめぐるドロドロといい、同じようなものじゃないか。
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毎日新聞から  

 学校の図書館や喫茶店で新聞を読まない日は、コンビニやキオスクで新聞を買う。朝日は150円だし、特別の理由がなければ、130円の京都新聞か毎日新聞を手にすることが多い(産経は100円だけど・・・まぁ、ねぇ)。将棋の棋譜が途中で飛んでしまうくらいで、とくに支障はない。
 そういうわけで、一昨日昨日と、2日連続で毎日新聞を読んだ。
 なるほど、と思った記事を3つ。

@米のとぎ汁を自然発酵させた乳酸菌を飲んだり目薬として利用したりすれば、放射能に効くという噂が流れ、実践している人がいるらしい。「子供のために必死になる親の気持ちはわかる。わからないのは、なぜこれを信じてしまうのかということの方だ。」「放射線ホルミシス(注:低レベル放射線が体にいいという説)は信じなくてもいい。だがそれなら、それよりもっと蓋然性の低い『米のとぎ汁乳酸菌』も信じないほうがいい。影響が重大である可能性は比べものにならないぐらい高いのである。」
(坂村健「時代の風」、7月31日)

A娘とシカゴに行ったりえぞうかあさん、その日はゲイパレードの開催日。
「お母さん、この旗なあに」
「レインボーフラッグ。すべての人が性別や宗教、国、肌の色で差別されず、そして男も女もそのまん中も自分らしく生きていけば、こんなステキでカラフルな世界になるのって旗。」
―パレードで一生けんめいレインボーフラッグをふる小さな東洋人の女の子に、シカゴのドラァグクイーンの姉さんは、素敵なキスと平和の首かざりをくれました。私はそれを見てるのが楽しかった。
(西原理恵子「毎日かあさん」、7月31日)

B下村治氏の「経済成長の条件がないのに成長を求めるな」という言葉を引き合いに、「脱原発もいいが、経済成長をどうしてくれる」という声を痛烈に批判する。「集団ヒステリーに陥っているのは『脱原発』志向の世論ではない。経済成長に妄執する指導者層である。」
(山田孝男「風知草」、8月1日)


 昨日の夜中、駿河湾を震源とする震度5弱の地震があった。かなり、あせった。
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西京極での節電ナイトゲーム  

 西京極へ京都サンガのゲームを見に行った。照明がついたが、3分の1くらいが消された節電ナイター。とはいっても観戦に支障はなく、いつもこれくらいでも十分じゃないのかな。観客5,200人。神戸のなでしこリーグには20,000人集まったそうだ。ゲームは、サンガがJ2の下位に低迷する理由がよくわかる、何がやりたいのかよくわからないものであったが、偶然ともいえるシュートが決まって、1−0で勝利。

 競技場から出ると、隣の野球場が入場無料で開放されていて、女子プロ野球の京都対兵庫が行われていた。入ったら最終回の表、守る京都が1点リード、2死2・3塁。カキーンという音が響き、打球は外野へ抜けた。2者生還で逆転。最終回の京都の反撃も及ばず、1−2で敗戦。観客の半分は、サッカーでもらったうちわを振っていたので、純粋な入場者は1,000人くらいだっただろうか。だらだらしたサッカーの試合に比べて、なんだかスピード感もあって、見ていてなかなかおもしろかった。

 さて、今、「原発を動かさないで電気が足りなくなると、経済が悪化して雇用が減少し、自殺者が増える。原発事故の死者よりもそちらの方が多い。」という脱原発批判をするエコノミストが散見される。「失職すると自殺しないといけない」世の中というのが前提になっているこの議論に乗るわけにはいかないが、雇用を流動化させ失職したときに手厚い生活支援を実施するべきか、そしてそうすることは可能か、「脱原発」の議論と関連して考えないといけないのだろう。
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京都府の私立高校就学支援政策  

 京都府が私立高校無償化の対象を、現行の年収350万円未満の世帯から、年収500万円未満の世帯に拡大すると発表した(1月26日)。これにより、対象者が1500人から4500人になると予想される。その対象は府内の私立高校に通う府内世帯の生徒に限定されるが、他府県との相互支援について、2012年度から実施できるように、近隣府県との協議を開始するとも報じられた。
 さて、そのためには6億円が新たに必要となるそうだが、その財源は、年5万円の授業料軽減補助の所得制限の切り下げ(年収1200万円未満から年収900万円未満)によって捻出するということである。また、これで足りなければ、大阪府のように、私立小学校や私立中学校に対する私学助成のカットが噂されている。
 この制度は、私立の平均授業料までの無償化であるので、それ以上の部分については、不足分の授業料を徴収するか、学校が持ち出す形で授業料無償化を実現するか、学校の判断に任されている。多くの私立高校が生徒減対策や公立高校との競争を回避する戦略として、中学校を併設したり募集人員を増やしたりしている中、中学校の助成削減は痛い。
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思考実験:もしもすべての高校が公立高校になったら?   

 昨日と反対に、それでは、すべての高校が公立高校になったとしたら、何か不都合が起きるのだろうか?
 たとえば「高校義務教育化」法案が国会で成立し、小中学校と同じく、すべての中学卒業生が進学できるだけの定員を公立高校のみで確保したら、どうなるか。実際にこれは、一部の都市部を除いてほとんどの地域では、実現可能のはずである。公立高校のすべり止めの役割を果たしている私立高校はかなり淘汰されるであろうから、県立移管あるいは統合という形をとることになろう。
 ただし、大学全入の時代にあっても一定レベル以上の大学については受験競争がなくならないのと同様に、定員という人数制限がある限り、一部の人気校に対する競争はなくならない。これを強制的に均一化すれば、かつての学校群制度や総合選抜制度の再現であるし、人口の多い都市部では高い学費(年間150〜200万円くらい)を負担してでも私立高校に流れる生徒が一定数存在するだろう。
 もっとも、宗教教育やクラブ活動などを含めた特色ある教育によって生徒を集めることに成功する私立高校は、イギリスでは8%程度存在するらしい。この8%という数字は、日本の私立中学校のシェアがそれくらいになりつつあるわけだから、かなり妥当なところではないだろうか。現在のシェア30%からの熾烈な生き残り競争がどのようなものになるのか、私学関係者としては考えるだけで目の前が暗くなる。
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思考実験:もしもすべての高校が私立高校になったら?  

 昨日、医療と教育とを対比して考える可能性について書いてみた。
 具体的に、たとえば、「過疎地域における医療/教育をどのようにして確保するか?」という問題について考えることはどうだろうか。
 その前に思考実験として、すべての高校を「私立高校」に移管してみたとする。つまり、すべての公立高校が学校法人による経営に移管され、法人ごとに教職員の就業形態を決定することができるようになったとしてみよう。
 その結果、公務員制度の壁によって阻害されていた柔軟な人事管理や予算編成・執行ができるようになることは、学校経営の多様化や機動性の確保という点では一定の成果をもたらすだろうが、その一方で、地方公立病院の医師不足が深刻化しているように、過疎地の高校への教職員確保の問題が起こるという可能性は、はたしてあるだろうか。
 地方の医師不足が深刻化した背景には、研修医制度が変わったり医局人事による強制ローテーションが減ったことがあるのだとすれば、過疎地における人員確保ということでいえば、広域採用や人事ローテーションが必要だということになろうか。ただし、これとて高校の設置主体が自治体であることを意味するものではない。
 とすると、基本的にすべての高校を学校法人化し、教員確保に困難が予想される地域においては、地域ブロックごとに法人を設置して複数の高校を経営することにすれば、どうなる?
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「春高バレー」=「新春の高校バレー」  

 サッカーとラグビーは、年末年始に3年生最後の大会を開いている。バレーボールもこれに続くことにしたらしい。高校と大学あるいは社会人の連携を重視して、少しでもブランクを短くしたい算段なのだろう。
 「全国大会に行くような生徒は、もう推薦での大学進学を決めている」ということが大前提になるのだろう。推薦入学が決まった生徒をどうやって学校につなぎとめるかは、各校悩んでいるところだと聞くから、競技団体にとっても学校側にとってもメリットはある話なのだろう。
 ますます「高校スポーツって何やねん?」という話にはなる。
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高いなぁ・・・  

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謹賀新年  

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暴力装置  

 官房長官が自衛隊を「暴力装置」と表現して袋叩きに遭っている。国家が暴力を独占する近代国家にあっては、警察や自衛隊が暴力装置であることは、ちょっと社会学をかじった者にとっては常識であって、「この場で使う表現としてはいかがなものか」とたしなめるのがもっとも妥当であり、「失言」とは言い切れず、ましてや「自衛官がかわいそう」というのは、感想としてはあり得ても、専門家が発するには学識を疑うコメントである。
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