「公への信頼」  政治のはなし

 授業の枕にオバマとロムニーのネタを持っていった話をブログで書いたら、酒と政治学の師匠である大学院の先輩から、「公に対する信頼を入れるとどうなる?」とコメントをいただいた。
 恐縮です。

 この「公への信頼」は、たしか何年か前に、京大の待鳥さんがどこかの雑誌で書いていた座標軸だったようにうろ覚えしていて、「大きな政府」「小さな政府」に代わって使われていたような気がするが、あまり定かではない。

 この「公」なのだが、「政府」なのか「公共」なのか、どっちの意味で使うかによって、大きく答えが変わってくる。
 政府に頼らないで自立した市民が新たな公共をつくろう、というものと、お上意識・官尊民卑では、天と地ほど違うわけだから。
 学校教育について考えると、たとえば「公立学校の復権」と「公教育の再生」とは、似て非なるものである。

 「公立高校」というとき、とくに地方ではそれは「官への信頼」と同義とみてよいのだろう。
 対して、たとえば港町や商都など、自主自立の精神に富んだ経済人が集まるところでは、古くから私学が創設され、高い威信を集めることとなった。ここでいう「私学」というのは「民間活力」と呼んでもよいだろう。

 たとえばイギリスやアメリカの「公立高校」と日本の「公立高校」は同じなのか。
 イギリスやアメリカの「公務員」と日本の「公務員」は同じなのか。
 こういうときの「公への信頼」とは、「政府への信頼」なのか「公共的なものへの信頼なのか」、それとも「まじめに働く公務員への信頼」なのか。

 学校教育を論じる上で、「公」というのはマジックワードである。

 ・・・ちょっととりとめないけれど、メモ代わりにとりあえず。
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オバマとロムニー  政治のはなし

ロムニー候補サイドの主張は「なんで金持ちだからといって、ビンボー人の面倒を見なきゃならんのだ」というもの。それこそ「不公平だ」という。「政府に頼るな」「自分でなんとかしろ」。これは医療制度についてもいえて「自分の体は自分で守れ」。アメリカの銃規制が進まないこともそうした主張があるからかも。
オバマ大統領サイドの背景には、「1%/99%」というのがあって、アメリカの富の多くをわずか1%が独占している状況に「不公平」といっている。そして「誰でも医者にかかれることは当然の権利だろ」というもの。
こうしてみると、ロムニー陣営の方が「自由」ですね。

でも、オバマ大統領は同性婚を容認する発言をして、それが支持率が伸び悩んでいる理由のひとつになっているらしい。妊娠中絶、移民、障がい者、マイノリティ問題について寛容な態度を示す。「リベラル」な主張というのかな。
ロムニー陣営の支持者の中には、こういうのがダメな人が多くて、宗教、家族、伝統的共同体を大切にする。こういうのを「保守」という。
ここで、オバマとロムニーの「自由」が逆転する。

つまり、2つの「自由」の軸があって、どちらも「自由」と「公正」を掲げて選挙戦をたたかっていることになる。

座標平面で示すと、右上にロムニー、左下にオバマがくる。

もちろん、人間はこんなに単純には割り切れないけれど、政治学のアタマで考えるとこんな感じで整理される。
そして、世の中には右下にいる人も(保守の再分配支持者)、左上にいる人も(リバタリアン?)いて、その人たちがどういう投票行動をとるか(どちらに入れるか、投票しないか)。

さて、これを日本にあてはめてみると、実は自民党の多数派も、民主党の多数派も、右下、つまり、社会生活では保守的主張をしながら、弱者に手厚い政策に理解を示すということになる。自民党の中にいるもっと競争をという人も、民主党の中にいるもっとリベラルな社会にという人も、少数派なので政策に反映されない。
そして、民主党と自民党の政策が似通っていき、争点が見えなくなる。

実はこれって、日本の理想の統治者像、名君の資質なんじゃないかな。
時代劇に出てくるお殿様って、こういう人でしょ。
そういう理想像があるがために、なかなかここから外れたことは言いにくい。

とすると、日本の左下の人、右上の人、さらに左上の人の行き場がない。

困ったねぇ。

この2つの自由以外にも、「軸」となりうるものはたくさんある。
たとえば、原発をどうするか。外交・安全保障問題をどうするか。通商政策をどうするか(TPP)。成長戦略の軸に何を据えるか。などなど。

政界再編が始まるのだろうけど、何か自分が注目する「軸」をつくって、政治家や政党の位置を確認していくと、ある流れが見えるかもしれないよ。


・・・2週間ほど前のTBS「サンデーモーニング」で出ていたボードをネタにやった授業の一部。
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脚注(スキャンしたまま未修正)  政治のはなし

1)96年度で34.0%。以上は、通商産業省資源エネルギー庁公益事業部編著『97原子力発電』日本原子力文化振興財団、1997、および通商産業省資源エネルギー庁原子力広報推進室「原子力テレフォン質問箱」への問い合わせによる(97年9月)。
2)石川欽也『ドキュメント原子力政策』電力新報社、1987、48-50頁。なお、科学技術振興対策特別委員会では、労働者農民党が「アメリカの原子力政策に従属する結果」になるおそれがあるとして反対を表明している。また社会党も衆議院本会議において、3法案に賛成しつつも、資本主義体制下の原子力の管理について懐疑的な姿勢を示している(55年12月14日、『第23回国会衆・参議院会議録」)。
3)毎日新聞社編「岩波書店と文藝春秋』毎日新聞社、1996、192-197頁。
4)日本原子力産業会議(立地問題懇談会地域調査専門委員会報告書)『地域社会と原子力発電所」1984、第1章参照。
5)80年代には、国民の過半数が原発に対して何らかの不安を抱くことになる。総理府が行ったエネルギーや原子力発電に関する世論調査によれば、原子力発電所に対して心配(不安)に思うことが「ある」との回答は、80年ll月では55.6%、81年11月では58.8%、84年3月では69.8%と、次第に増加している。内閣総理大臣官房広報室編『世論調査年報』各年度版参照。
6)原子力発電の燃料であるウランは石油に比べて少ない燃料で発電が行えるために輸送や貯蔵が容易であることに加え、使用済燃料を再処理して回収されるウラン・プルトニウムを利用するという核燃料サイクルが完成されればウラン資源の有効理由がさらに進むことになる、ということがこのようにいわれる所以である。また安定供給の観点からは、ウランの供給国には政情の安定した先進国が多いということも原子力の有利な点としてあげられている。通商産業省資源エネルギー庁公益事業部編著前掲『'97原子力発電』13頁。
7)通商産業省資源エネルギー庁編『エネルギー政策の歩みと展望』通商産業調査会、1993、第2章参照。
8)この構図は基本的に、90年代に入っても変化しない。
9)原発の是非をテーマとした公開討論番組では、原発の安全性、放射能のリスク、現代文明の本質などといった切り口から討論が進められたが、議論は最後まで平行線をたどったままであった。テレビ朝日系「朝まで生テレビ!』1988年7月29日放映分。この放送の内容については、朝まで生テレビ!『原発・是か?非か?』テレビ朝日、1988、を参照。
10)なお、技術面からの原発問題については、筆者の理解を越えるものが多く、また直接的に「社会問題としての原発問題」に関係するものではないために、本稿においては個々に検討を行うことをしない。また、本稿で扱う研究以外にも、優れたルポルタージュが数多く書かれ、原発紛争に直面してその中で生きる人々の様子を生き生きと描き出している。
11)たとえば、YujiroEguchi,"JapaneseEnergyPolicy",InternetionalAffairs,vo1.56,No.2,1980Spring,Tatsujiro
Suzuki,"Japan'sNuclearDile皿ma",TechnologγReview,October1991,ThomasC.Lowinger,"Japan'sNuclearEnergy DevelopmentPolicies:AnOverview",7'he/bterualofEnergyαndDevelOpment,vol.15,No.2,1992,などを参照。
12)Suzuki,"Japan'sNuclearDilemma",p.42.
13)クラズナーは「中心的政策決定者が見つけるゴール」を「国益(nationalinterest)」とし、それを中心的政策決定者の言動から帰納的に定義する手法をとっているが、ここであげたエネルギー政策研究でも、通産省が中心となって政府が追求する戦略的目標から、日本にとっての利益を設定している。StephenD.Krasner,DefendingtheNatiouat1撹gγ8s直,PrincetonUniversityPress,.1978,Chapter皿.
14)LindaCohen,MathewD.McCubbins,andFrancesMcCallRosenbluth,"ThepoiiticsofnuclearpowerinJapanandtheUnitedStates",in∫trPtctureandPo娩yin∫apanandtheUnitedStates,editedbyPeterF.CowheyandMathewD.McCubbins,CambridgeUniversityPress,1995.
15)HarveyFeigenbaum,RichardSamuels,andRKentWeaver,"lnnovation,Coodination,andImplementationinEnergyPolicy",inDoJnstitutionsM雄8γ乳editedbyR.KentWeaverandBertA.Rockman,Brookings,1993.
16)S.HaydenLasbireL,"lmplementingnuctearenergypQlicyinJapan",EnergyPolicy,April1990,pp.267一・282.
17)構成は、内閣総理大臣を会長とし、大蔵・農林・通産・建設・自治大臣、経企庁・環境庁・国土庁長官と学識経験者8人を委員とする。
18)通商産業省資源エネルギー庁公益事業部編著前掲『'97原子力発電』、91-92頁参照。なお、電源立地促進財政制度の展開については、清水修二による研究が詳しい。清水「電源立地促進財政の地域的展開」『福島大学地域研究』第3巻第4号、1992、同「電源立地促進財政制度の成立」「電源開発促進対
策特別会計の展開」『福島大学商学論叢』第59巻第4・6号、1991。
19)村松岐夫『地方自治』東京大学出版会、1988、50-51頁。
20)この節は基本的に次の文献に依拠しており、一般的な事実に関しての出所は特に注記しない。『福井新聞』縮刷版、『朝日新聞」縮刷版およびCD-ROM、福井原子力センター編『福井県の原子力(改訂第9版)』福井県、1997、大飯町役場編『町勢要覧』。なお、福井県関係の資料については、佐藤満教授(立命館大学)、木村亮助教授(福井大学)、柳沢芙美子氏(福井県総務部文書学事課)に、また大飯町については吉田一弘氏(大飯町企画情報課)に大変お世話になった。
21)道路建設は、原発が立地している若狭湾の半島部の住民にとって共通の「悲願」であった。朝日新聞福井支局『原発が来た、そして今』朝日新聞社、1990、序。
22)知事に対しては、国からも原発建設実現の要請が行われたという。このあっせんに関わる知事の動きについては、中川平太夫顕彰会『中川平太夫伝s、1989、346-348頁、に詳しい。
23)この申し入れに対する関係者のコメントは『福井新聞』81年8月26日付を参照。
24)『福井新聞』81年6月10日付3面参照。「原子力発電と地域問題を考える市民連合大集会」と銘打たれたこの集会には、県内各地から3千人が集まった。この集会で演壇に立ったのは次の通り。
高木孝一敦賀市長、熊谷太三郎自民党県連会長、岩動道行自民党電源立地推進対策副本部長、佐々木義武同本部長、中山太郎総理府総務長官、福田赴夫元首相、福井県選出国会議員(牧野隆守=衆・自民、平泉渉=衆・自民、横手文雄=衆・民社)、吉田之久民社党教宣局長、中川一郎科学技術庁長官、桜内義男自民党幹事長、東郷重三県議会議長、矢部智恵男前敦賀市長
25)敦賀商工会議所、自民党県支部連合会などが代表世話人となる「原子力発電と地域問題を考える市民連合」が292,655人分の署名を、また、福井同盟会長が代表世話人をつとめる「エネルギー問題を考える県民会議」が6万人分の署名を、6月30日、原発推進の請願書に添えて県議会に提出している。なお、原発反対県民会議などが敦賀原発永久停止を訴えて前日(29日)に提出した署名簿は、108,692人分であった。『福井新聞』81年6月30日付3面および7月1日付3面参照。
26)当時の県議会における会派と勢力は次の通り(定数40)。県議会自民党(31)、民社党自由クラブ(4)、社会党県議団(3)、公明党(1)、無所属クラブ(1)。83年の改選で若干の変化はあるが、基本的に県会自民党の圧倒的な優位は揺るがない。
27>大飯増設に対しては、町造りの会と小浜市民の会を中心として「反原発3・4号機増設阻止対策会議」が9月に設置された。なお、反対運動の動きについては、立命館大学人文科学研究所社会システムシミュレーション研究会(通称:EBISSプロジェクト)による中島哲演小浜市民の会事務局長へのインタビュー(97年5月)によるところが大きい。本稿執筆に際し、渡滋助教授をはじめプロジェクトのメンバーには物心両面において多大なるサポートを賜った。
28)県議会での議席数は社会党が3、共産党は0であり、各市議会や町議会でも両者合わせて多くても1ケタ前半の議席獲得にとどまっていた。
29)以上は、筆者による吉村清元敦賀市議(社会党、敦賀市民の会代表委員)へのインタビュー(96年11月)および筆者も参加したEBISSプロジェクトによる猿橋巧大飯町議(共産党、町造りの会)へのインタビユー(97年8月)に基づくところが大きい。また、京都大学法学部サークル「がらっばち」による青森県での聞き取り調査とも合致する(92年8月)。
この調査には筆者も参加したが、大下由宮子氏(りんごの花の会)、高梨酉蔵氏(核燃から漁場を守る会)、土田清六ケ所村長、寺石力三郎元六ケ所村長にはとりわけお世話になった。
30)『福井新聞』81年8月30日付嶺南面「日曜レポート」より。
31)『福井薪聞181年10月17日付2面。
32)原発増設を管轄しているのは通産省であり、科学技術庁は高速増殖炉開発を担当している。両者とも原発推進の姿勢を明確にしていることについては共通であるが、この両者の原発に対するスタンスは大きく異なる。詳しくは、吉岡斉「日本の原子力体制の形成と展開」『年報科学・技術・杜会』1号、1992、石川欽也『原子力委員会の闘いa電力新報社、1983、参照。
33)来福した中川長官は中川知事に対して正式に「もんじゅ」建設の協力要請を行う際に、福井臨海工業地帯(福井臨工)へのテクノパーク建設のための調査費計上などを前向きに検討することを示したが、当時福井臨工造成事業は県財政を圧迫し、その処理は中川県政最大の懸案事項であった。木村亮「福井臨海工業地帯造成計画の軌跡J『福井県史』通史編6近現代二第6章第1節2、1996、845-848頁。
34)執行部はこの理由として、@エネルギー情勢が変化し、自民党が電源立地推進本部を設置するなど、代替エネルギーの中心として原発問題に取り組まざるを得なくなった。A大飯町が地域振興を図る財源として電源三法交付金を当てにしており、地元のニーズに応える必要がある、ことなどをあげている。『福井新聞』82年3月18日付3面。
35)この時期の中川県政は共産党を除いたオール与党であったが、社会党は両方の採決ともに反対に回る。
36)宮永県原子力安全対策課長の発言。『福井新聞』82年5月18日付5面。ただし、原発受入れの理由の1つとしていわれている財政的メリットについては、この時期県として高く評価していたわけではない。森川県総務部長は3月県会での質問に答え、県の原発関連支出は一般財源からの持ち出しになっており、原発が財政面でさほどプラスにならないことを認めている。『福井新聞』82年3月18日付3面。なお、原発
と福井県財政についての分析は、木村亮「原子力発電所の新増設と地域振興」『福井県史』通史編6近現代二第6章第1節3、1996、参照。
37)町造りの会がこの署名集めに組織できたのは31人にとどまり、すでに1・2号機建設反対運動の時(400人以上を組織)のような勢いは町造りの会にはなかった。猿橋巧氏へのインタビューによる。
38)町造りの会にとっては、予想していた数の半分にも満たなかった。猿橋巧氏へのインタビューによる。なお、反対運動を繰り広げる人々が各方面から有形無形の圧力をかけられると感じていることは多いという。たとえば、浜辺影一「反原発の声を結集した意見広告」『月刊杜会党』1984年10月号、落合誓子『原発がやってくる町』すずさわ書店、1992、中島哲演『原発銀座・若狭から』光雲社、1988、など。
39)嶺南(上中町)出身の中川知事にとっては、福井坂井、丹南の発展を軌道に乗せた後は、嶺南振興が大きな課題であったと思われる。
40)藤尾正行自民党政調会長は、陳情に訪れた県会自民党執行部に対し、「福井県さんは来る人によって言う事が違いますね」と、福井県としての意見の不一致を指摘したという。「県政展望」『月刊福井』1984年4月号。
41)『福井新聞』84年3月14日付3面。
42)この経緯については次の通りである。小浜市民の会が吹田安兵衛市長に増設の是非などについての姿勢を問うたところ、市長は「小浜市としては口を挟む余地はない」としてこれ拒否した。これを受けて小浜市民の会は、大飯原発の防災範囲内(大飯原発から半径10キロ)に住む小浜市内の有権者に投票用ハガキを配布し、独自に市民投票を実施した。結果は、投票対象有権者数の53.2%にあたる7,316票が回収され、増設「反対」が6,644票(90.8%=投票対象有権者の48.3%)、「賛成」は639票(8.7%)、無効は32票、というものであった(『福井新聞』84年11月6日付3面など。また中島哲演前掲『原発銀座・若狭から』参照)。もしも小浜市としての意思決定を行ったとすればどのような結果が出たかは想像するしかないが、96年8月に新潟県巻町で行われた住民投票の際に問題となった「住民の意思」と議会制民主主義との緊張関係という側面をここに見ることができよう。また、なぜ巻町で成功した住民投票の動きが小浜市では失敗したのか、比較の見地から検討が進められよう。
43)中核工業団地は最終的には上中町に建設することに決定し、88年6月から用地買収開始、92年3月に造成工事を完了して、若狭中核工業団地(通称「若狭テクノバレー」)として分譲が進められている。
44)県水産会館建設や敦賀の高校・女子短大新設の資金の大半は電力会社からの寄付によってまかなわれており、こうした寄付が日常的に行われていることは、しばしば新聞誌上において指摘されている。『福井新聞』84年3月11日付3面、85年3月18日付「話題と焦点」、同3月24日付「日曜レポート」など参照。
45)『福井新聞384年11月20日付3面。
46)記者会見(1月30日)で中川知事は同意理由について「地域の恒久福祉では国の対応は遅れているという認識を持っていたが、資源エネルギー庁の嶺南地域振興計画の青写真が本年度中にできるなど前向きに取り組んでくれていることを確信し、態度を決めるときと考えた」と話した。『福井新聞』85年1月31日付1面。
47)アンケート調査によれば、地方政府にとって重要とされている政策課題は群を抜いて産業振興政策であるという。佐藤満・干場辰夫「富山・石川・福井三県市町村長アンケート調査結果報告」『立命館法学』1990年5号。なお、ピーターソンは地方政府が開発政策をとらなければならないという構造的制約の中にあることを指摘している。PaulEPeterson,C吻Limits,TheUniversityofChicagoPress,1981,pp.69-70.
48)こうしたアクターのカウンターパートとして、エネルギー供給の問題や安全性の問題について統計的・技術的に論じることで原発は不要であるという主張を行う、大都市圏における在野の専門家集団や学者グループを中心とする反原発運動を位置づけることができる。この運動は、情報面や専門的知識の面で地域における運動を支援するとともに、広く原発の問題を世論に訴える役割を果たしている。長谷川公一「反原子力運動における女性の地位」『レヴァイアサン』8号、1991。なおこの中で長谷川は、チェルノブイリ以前の反原子力運動の構図を、立地点における建設反対運動、立地点周辺の地方拠点都市における支援運動、大都市圏における反原子力運動の情報センター、の3つに整理している。
49)梶田孝道『テクノクラシーと社会運動』東京大学出版会、1988、24-25,68頁。
50)大嶽秀夫「テクノクラシー論の再構成」「レヴァイアサン』4号、1989。
51)共産党が原発反対の立場を明らかにし始めるのは、スリーマイル島事故以降原発の安全性が問題となってからであると見られる。中島篤之助・矢島恒夫・柳町秀一・松橋隆司「座談会・自民党政府の原発政策批判」『文化評論』1988年7月号、を参照。
52)このような社会党固有の現象については、以下を参照。的場敏博「戦後前半期の社会党」日本政治学会編『年報政治学91戦後国家の形成と経済発展』岩波書店、1992、大嶽秀夫『戦後日本のイデオロギー対立』三一書房、1996、第3章、高畠通敏編『社会党』岩波書店、1989、石川真澄・広瀬道貞
『自民党」岩波書店、1989、第1章。53)谷聖美「社会党の政策決定過程」中野実編著『日本型政策
決定の変容』東洋経済新報社、1986。54)1955年の統一党大会政策綱領には「新興産業として(中略)
原子力産業の育成をはかる」「原子力の平和利用のための研究設備を整備する」をいう文言が見られる。
55)「明日への期待一社会党政権の政治」(1966年1月21日、日本社会党政策審議会編『日本社会党政策資料集成』1990、所収)
56)「原子炉の設置及び安全確保に対する党の方針」(1961年6月14日、同上)
57)50年代後半から60年代前半にかけて、社会党の機構改革の結果活動家層の発言力が強められたということがその原因の1つとしてあげられよう。中北浩爾「戦後日本における社会民主主義政党の分裂と政策距離の拡大」『国家学会雑誌』106巻11・12号、1993。
58)79年の社公協議においては、原発積極推進の姿勢をとる民社党との関係から、原発問題がもっとも難航したという。吉田正雄「原発反対闘争の今後の課題」『月刊社会党』1980年4月号。
59)この時期、電力業界と関係の深い雑誌で、社会党国会議員がインタビューを受け、党内の反原発の論理を「非科学的」として批判している。後藤茂・松前達郎「硬直した社党「反原発』政策を見直せ」『エネルギーフォーラム』1984年8月号。
60)原対協の中心となった県は、新潟、福井、福島、高知など、原発立地県あいは原発立地予定県であった。日本社会党原発対策全国連絡会議『原対協5周年のあゆみ』社会党原対協事務局、1987。また吉村清氏へのインタビューにもよる。
61)「稼働中の原発については、安全性を追求し、これが確認できない以上、運転を中止させ再検査、再点検を行う」という部分であり、最終的には、この「安全性を追求し」とは稼働中の原発を容認するものではないことを明確にすることで決着がついた。なお、討議の具体的内容については『月刊社会党』1985年臨時増刊を参照。
62)『月刊社会党』1983年4月号では「反動中曽根内閣との対決」という特集が組まれ、その冒頭には飛鳥田委員長が「戦後最悪の反動内閣との闘い」と題した論文を寄せ、「わが党はこの(戦後政治体制の根幹としての憲法体制を破壊する=引用者注)危機を直視し、『護憲の党=社会党』の命運をかけて中曽根内閣と対決していかねばなりません。」(p.11)と強い調子で訴えている。
63)原水禁は「核絶対否定」の枠組みの中に原発も含んでいる。森瀧市郎『核絶対否定への歩み』渓水社、1994、を参照。また原水禁運動と反原発運動の関わりについては、社会民主党国民運動局の増田浩司氏からアドバイスをいただいた。
64)しかしあくまで反対運動に携わる人々を動かしたのは、放射能の不安であった。たとえば、中村亮嗣「ぼくの町に原子力船がきた』岩波新書、1977、明石昇二郎『六ケ所「核燃」村長選』野草社、1990、朝日新聞津支局『海よ!芦浜原発30年』風媒社、1994、など。なお、反原発運動の歴史については、原子力資料情報室の伴英幸事務局長にお世話になった。
65)社会党の地方組織については、友松信也兵庫県議、粟原富失神戸市議、阪本清社会党島根県本部書記長(肩書きはいずれも94年当時)にアドバイスをいただいた。
66)地方の社会党についての研究は少ないが、新潟県の原発反対運動と社会党との関係についての分析として、田中靖政『チェルノブイリ・シンドローム』電力新報社、1989、第2章、がある。
67)なお、本稿では労働組合の動きについて詳しい考察を行ってはいないが、一般論として、原発メーカーのうち、電機労連加盟の組合は社会党を、造船重機労連は民社党を、また電力労連は民社党をそれぞれ支持する方向で活動し、いずれも原発に積極的な意味づけを行って推進(あるいは容認)の根拠としたのに対し、同じ社会党系労組でも総評系組合は原発反対運動をリードした、という指摘をするにとどめておく。
68)大飯町の場合、91年3月現在でではあるが、総従業者数3,350人のうち、建設業が952人(28.4%)、電気・ガス・熱供給・水道業が671人(20.0%)と、県全体での割合(それぞt'LIO.O%、1.1%)を大きく上回っており、原発建設および運転に雇用を依存していることがわかる。福井県『福井県統計年鑑」より。
69)ただし、外来型開発そのものに限界があるとの指摘がある。たとえば、宮本憲一・横田茂・中村剛治郎編『地域経済学』有斐閣、1990、333頁。
70)小林良彰・石上泰州「ケーススタディ自治体財政の現状と要因分析」『地方財務』1990年8月号。
71)交付金や固定資産税は将来的にはゼロになってしまうものであること、電源三法交付金が主に建設事業に対する特定財源であり自治体の実情に合った計画を推進することには必ずしもならないこと、またその建設のための地元負担の際の起債や完成後の維持管理費が将来的に自治体財政を圧迫するお
それがあること、などである。
72)このような指摘は、他のケーススタディによっても報告されている。清水修二前掲「電源立地促進財政の地域的展開」、山川充夫「原子力発電所の立地と地域経済」『地理』32巻5号、1987、芝田英昭「原発は地方に何をもたらしたか(上・下)」『住民と自治』1989年2・3月号、大坂健「原発都市の財政構造と特質」「都市財政構造の変容』東京市政研究会、1991。なお、清水と山川は福島県双葉町など浜通り地域を、芝田は福井県大飯町を、大坂は福井県敦賀市を、それぞれケースとして分析を行っている。
73)西尾勝「過疎と過密の政治行政」日本政治学会編『年報政治学7755年体制の形成と崩壊』岩波書店、1979。
74)大嶽秀夫「開発」日本政治学会編『年報政治学79政治学の基礎概念』岩波書店、1981。
75)原発が「迷惑施設」か否かは、原発が実際に危険かどうかとは別の問題である。なお、原発の立地には、広大な用地、堅固な岩盤、十分な冷却水、という条件が必要であるが、筆者が大飯原発を見学した際に受けた説明では、この3つに加えて「地元の理解」という第4の条件がついていた(96年8月)。これには原発が地元にとっては迷惑施設と見られがちであるという認識が前提としてあると考えてよいであろう。
76)政策ネットワークについては、以下の文献を参考にした。秋月謙吾「非ルーティン型政策と政府間関係(二)」『法学論叢』123巻4号、1988、衛藤幹子『医療の政策過程と受益者』信山社、1993、PeterKatzenstein,"SmallNationsinanOpenInternationalEconomy",inBringingtheStαteBaclein,edited
byPeterB.Evans,DietrichRueschemeyer,andThedaSkocpol,CambridgeUniversityPress,1985、小池治「政策ネットワーク分析試論」行政管理研究センター調査研究部編『政策研究のフロンティア(1)日本の公共政策』行政管理研究センター、1989、VolkerSchneider,"Thestructureofpocynetworks",EPtroPeαnJonmalOfPotiticalResearch,21,1992、新川敏光「政策ネットワーク論の射程」『季刊行政管理研究』No.59、1992、真渕勝「カッッェンシュタインの行政理論」『阪大法学』41巻2・3号、1991、笠京子「戦後日本の交通政策における構造・制度・過程」『香川法学』第12巻2号、1992。
77)新川敏光は、政策ネットワークを、@国家と社会の相互依存性、Aネットワークの閉鎖性、という2つの基準によって、「寡占的共同体(高・高)」「顧客主義的ネットワーク(高・低)」「政策カーテン(低・高)」「イシュー・ネットワーク(低・低)」の4つに区分する。新川前掲「政策ネットワーク論の射程」、15-17頁。またこの類型化の原型となっているのが、シュナイ'ダーのモデルである。Schneider,"Thestructureof policynetworks",pp.112-117。
78)「サイレント・マジョリティ」を、「声なき支持」ととるか「声なき反対」ととるかは、統計の使い方などによって変わってくる。地域レベルでの調査結果は筆者の手元にはないが、全国レベルでの議論としては、たとえば、田中靖政前掲「チェルノブイリ・シンドローム』、終章、長谷川公一『脱原子力社会の選択』新曜社、1996、286-287頁、を参照。
79)梶田孝道前掲『テクノクラシーと社会運動』、第1・2・結章。
80)東大や京大をはじめ、全国の大学の工学部から「原子力」の名が消えつつある。山口俊明「職人も研究者もいない」「RONZA』1997年2月号。
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日本における原子力発電所立地受入れの政治過程 (5)まとめ  政治のはなし

X まとめ

 日本の原発問題は、従来国家のエネルギー政策として語られることが多かった。しかしこれだけでは、日本の原発立地政策の特徴のひとつである、立地の遅滞の現状を説明することが難しかった。そこで本稿では、別の視角からも原発問題についてアプローチすることを目指し、とりわけ「地方」と「政治」に注目してその政治過程を分析した。大飯原発増設のケーススタディからは、原発受入れによる財源によって振興計画の実現を図ろうとする町アクターや、原発受入れの見返りとして地域振興計画への国の協力を要請しようとする県アクターの様子が浮かび上がった。そこには、原発を地域振興政策という視点から捉えている地方アクターの姿があり、そしてそのアクターは「迷惑施設」である原発をリソースとして積極的に活用することで、地域振興を達成しようと試みていたのである。また、原発政策にはアクターの3つのサブカテゴリーが設定することができ、それぞれに分類されるアクターはそれぞれ別の方向から原発問題に関わっていた。そして相互に独立しているアクター群を1つの「原発立地政策」として統合している政策ネットワークの存在を指摘することができた。さらに、そのネットワークには反対運動は加わっておらず、原発問題を政治争点化することはなかなかできないでいた。これは、80年代の社会党が抱えていたジレンマに由来するところがあったと考えられるが、そもそも原発問題の本質が全国的に薄く広がった「受益圏」の存在を背景としていたためでもあると考えることもできる。このように本稿では、地方アクターに焦点を当てた地域振興政策としての原発問題という視座を分析の中心に据えながら、政策ネットワーク、そして分離型紛争へと、徐々に考察の対象を拡大していき、日本の原発問題を概観してきたのである。
 原発を取り巻く昨今の状況は、現在急激な変化のまっただ中にあるといってもよいであろう。95年12月の高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故以来相次いで報じられる原子力施設のトラブルと隠蔽工作の露見は、国の原子力行政に対する信頼を急速に失わせる結果となっているd96年8月新潟県巻町で行われた住民投票の結果、町長が町有地の売却を拒否して原発立地が暗礁に乗り上げ、国の原子力政策に大きな衝撃を与えた。研究レベルでは、原子力工学は往年の活気を失い、学生の「原子力離れ」は深刻であるという。その一方で電力需要の伸びからくる将来の電力不足が強調され、電力会社はメディアを通して原発の必要性を訴えている。これからも原発の問題は、我々の生活と深く関わり、少なからぬ影響を及ぼし続けるであろう。筆者が原発を研究対象として選んだ理由は、原発問題が重要な社会的関心事であるにもかかわらず、それについての整理がついておらず、まさに原発についての理解が混乱していると考えるためであった。受入れ過程の分析を通して原発問題について整理するということが本稿の目的の1つであったために、事象の総花的描写になった部分があることは否定できない。この精緻化は今後の大きな課題である。しかしながら、原発政策について多元的アクターの動きに焦点を当てた研究の蓄積はこれまで十分であったとはいえず、筆を措くにあたって、今後ますます原発問題への注目が高まることが予想される中で、その問題の理解と解決にとって、本稿で提示した枠組みが微力ながら一助となることを祈念してやまない。
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日本における原子力発電所立地受入れの政治過程 (4)考察  政治のはなし

W 考察

1「原発問題」への3つのアプローチ
(1)エネルギー政策としての原発問題
 まずはじめに、「エネルギー政策としての原発問題」という関わり方をするアクター群を認めることができよう。ここに登場するアクターは、通産省や電力会社といった、国家のエネルギー政策に深く関係しているアクターである。また、科学技術庁や、原発推進を支持する学者グループもここに含まれよう。このアリーナにおいては、原発は国家のエネルギー戦略のための手段の一部であり、電力の安定供給を中心とする技術的側面から原発問題へのコミットメントが行われている。そのため、その主張も電力供給にとっての原発の「必要性」を前面に打ち出したものとなるのである48)。
 こうした特徴をもつアクターをここでは「原発テクノクラート」を呼ぶことにしよう。梶田孝道によれば、テクノクラートは、社会システム内の諸主体の利害を規制・調整しつつ社会システムの構造的危機を解決していくような、専門的能力と能動的主体性とを具えた存在として定義される。そしてテクノクラートは、社会問題をコスト最小化・利益最大化という「経営問題」「最適化の問題」としてとらえ、政策の「体系的整合性」を追求するのであり、地元住民の「生活者の視点」からの直接的・具体的な利害や要求も「全体的」文脈の中で相対化されて理解されるのである49)。このテクノクラートの正統性の根拠は、シンボルとしての国民全体の利益=「国益」を代表するということからくる優越性の主張であり、それゆえに利益団体や個別官庁の特殊利益の要求に対抗することが可能となる。その国益の追求を可能たらしめるのが、トップ・エリートが元来持つ制度的遮蔽性と、専門知識・技術の独占に由来する自律性であり、それに加えて制度化されたリクルートメントや昇進によってその社会の影響からの遮蔽性が一段と強化される50)。
 このようなテクノクラートが、どのような形で原発立地政策に関わっているのだろうか。エネルギー政策はその性質上、専門的な知識や技術、また国家的かつ長期的なビジョンが不可欠であり、原発問題をエネルギー政策の一部として捉える場合、その決定についてはテクノクラートによって独占的に行われることは確かであろう。しかしながら、(エネルギー戦略の一部としての)決定の実施にあたっては、その遅滞によって決定そのものが影響を受けており、むしろその「遮蔽性」は脆弱であり、従ってテクノクラートの高い能力が貫徹していないということになるだろう。そこで、このテクノクラート主導のエネルギー政策の領域とは異なるものとして、実施段階、すなわち地方における原発立地政策について考えてみる必要がある。

(2)イデオロギー領域としての原発問題
 ところで、国レベルにおける原発立地政策について、エネルギ7政策としての原発政策と対置される形で、原発に対するイデオロギー問題としてのコミットメントという第2の側面も存在する。これは、原発技術の軍事的転用の危険性から(少なくとも現在のような原子力行政下では)原発の建設や運転を容認しない、というものであり、それゆえにここでは、原発の安全面での論争や、エネルギー源としての原子力開発という問題設定は、副次的なものになっている。ここに分類されるのは社会党(とりわけ左派)である。また、共産党もこのアクター群に加えられようが、共産党はあくまで原子力の平和利用には賛成であるという基本姿勢から、国政レベルにおいては原発の問題については積極的に関わってこなかった51)。
 その社会党の政策決定については、しばしば「左翼バネ」によって特徴づけて論じられてきた。すなわち、1950年代に「護憲・平和」を前面に打ち出して「構造的反対派」として着実に国民からの支持を獲得した左派の自信が、党勢の凋落が指摘されるたびに頭をもたげ、党としての変革の動きを妨げる「呪縛」として長く機能し続けた、というものであり、西ドイツ社会民主党のゴーテスベルク大会における現実路線への大転換(59年)と対照的に語られてきている。そして事実国民は、「平和の党」「チェック政党」としての役割を社会党に期待していたのであり、社会党が、その党組織の弱さにもかかわらず幅広い層の支持を得て野党第一党の地位を確保することができたのは、そのためであった52)。このような社会党の政策決定を、谷聖美は「イデオロジカル」な決定と「プラグマティック」な決定に区分する。そして、自衛隊や対韓政策、原発といった問題は、二者択一的性格を有しているために妥協が困難であり、そのためにイデオロギー的立場から演繹的に議論が行われ、決定過程を紛糾させやすいことを指摘する53)。
 原子力三法成立の経緯:からもわかるように、社会党ももともと原子力の平和利用には積極的であったのだが54)、60年代になると社会党は、原発を「技術的にアメリカに従属して核物質の軍事利用の危険を潜在させているのみならず、しかも技術開発の負担は国が背負い、企業化された場合の利益は大企業の懐へはいる仕組みとなっている」55)として「大企業原子力産業グループの大型動力炉の導入については、(中略)安全性、経済性の実証されない現在においては、あくまでその導入に反対する」56)という方針を示し、次第に反対の立場を明確にしていく。この背景には、地方の反原発運動からの突き上げがあった57)。そして、社会党の左派支配が強まっていくに従って、社会党のイデオロギー的傾斜およびこれと並行した原発問題のイデオロギー問題化が進んでいったのである。こうして社会党は、70年代には原発の即時運転停止を求めるという方針を採用するようになる。
 これに変化が起きるのは、飛鳥田一雄委員長時代の社公民路線である。3党間での協議を進めるうちに、社会党と公明・民社両党との間には、自衛隊、安保、朝鮮半島という基本政策上の深い溝が存在することが次第にはっきりと表面化してきており、原発問題もその1つであった58)。そしてこのころから、社会党内で「現実路線」を主張して運転中の原発の容認を唱える声が大きくなり、「容認」グループは、党の政策審議会(政審)資源エネルギー政策委員会を中心に党の原発政策への批判を強めていく59)。この動きを牽制すべく、原発立地県の地方議員が中心となって80年頃から反原発全国組織結成の動きが起こり、82年には「日本社会党原発対策全国連絡協議会(原対協)」が設立され60)、科学技術庁・通産省資源エネルギー庁への申し入れや、政審科学技術政策委員会や国民運動局を通じての党中央への働きかけを行うようになった。こうした緊張関係が一気に表面化したのが、「原発大会」と呼ばれる85年1月の第49回定期全国大会であった。新しく策定された「中期社会経済政策」中に運転中の原発容認ともとれる一文が存在し、これをめぐって激しいやりとりが繰り広げられたのである61)。このような党内対立の火種を抱えていた社会党であるが、この時期の党全体の方向性としては、「現実路線」への模索が続けられる一方で、中曽根「軍拡」政権の一連の「反動政策」に対抗すべく、「護憲・平和の党」としてのアイデンティティを強く打ち出さざるを得ない状況におかれていた62)。すなわち、ハイ・ポリティクスこそがこの時期の社会党にとって重要な政策領域であり、原発政策に関しても、反核運動との関連から打ち出してきた「原発容認せず」という路線を、少なくとも表面上は維持し続ける必要があったのである。しかしながら従来からのこの路線を前面に押し出すこともまた、上述の党内事情からはばからざるを得なかったのである。
 ここに、80年代前半期において、原発政策が国政レベルにおいて争点とならなかった1つの原因を求めることができる。すなわち、社会党が「原発反対」の姿勢を容易に変更できず、かといってその姿勢を強硬に打ち出すわけにもいかないというアンビバレントな状況におかれていたために、原発政策において明確な態度を示すことができなかった。そしてこれは、中央の政策決定過程において原発推進勢力に対抗するまとまった政治勢力が存在しなかったということを意味する。
 一方、地域での原発反対運動の中心となったのは、放射能によって漁場や農地が汚染されることに危機感を抱いた漁民や農民であった。電力会社と漁民・農民との協議は平行線をたどり、建設のためのリード・タイムが長期化していく。このような漁民、農民の運動を支えたのが、県評や地区労の労組活動家であり、彼らの多くが原水禁(原水爆禁止日本国民会議)運動63)に深く関わっていたこともあって、また当時の大学紛争などの流れから、漁場や農地を守る運動という生活防衛的性格をもつ原発反対運動は、反核・平和の運動とのリンクを強めていく64)。このように、地域での原発反対運動は元来イデオロギー色の薄いものであり、強いイデオロギー的要素を背景とした社会党中央の原発政策とは性格を異にするものであった。また、社会党そのものの歴史的性格も少なからず党としての反原発への取り組みに影響している。もともとが無産主義政党の幅広い連合体として成立した社会党ゆえに、地方組織の性格はその歴史的経緯によって多様であり、地方における運動について、党として中央集権的な統制を行うことはきわめて困難であったのである65)。原発問題で反対の立場から強硬な姿勢を崩さなかったのは、原対協に代表される、原発が立地あるいは立地が計画されている地方支部の動きであったのだが、この原発反対闘争についても地方の自主的な動きに委ねられていた66)。そしてこれゆえに、エネルギーの源泉を地域の生活防衛的な意識に求める原発反対運動が、社会党を媒介として国政レベルで、また全国的に争点化を図ろうとしても、そのパイプ役としての機能を社会党が十分に果たし得なかったという可能性を示唆している。
 以上を整理すると次のようになる。原発問題に対するイデオロギー的アプローチをとるアクターが存在し、その中心となっていたのが、最大野党たる社会党であった。しかしながら、この方面からのアクターは、政策決定過程に十分な形で参加してこなかった。その原因として本稿では、当時社会党の抱えていたジレンマと党組織の特徴ゆえに中央での争点化が困難であり、それゆえに運動は地域闘争に限定されたと考えた。
 ただし、社会党と原発政策については、谷によっても指摘されているように、イデオロギー的政策決定が必ずしも左右の党内派閥対立に直接結びついたわけではなく、さらにいえば、原発政策が社会党にとってイデオロジカルなイシューとしてのみ扱われたというわけではない。党内には、電機労連出身議員などから、むしろプラグマティックに原発問題をとらえようとする動きがあり、それが党が社公民路線を選択し「現実化」をはかろうとする流れの中で「原発容認」勢力として表舞台に現れるようになったのである。ここでは、原発をめぐる党内対立は、イデオロギー対立ではなく、原発政策のもつイデオロジカルな部分とプラグマティックな部分との葛藤であったということもできよう67)。

(3)地域振興政策としての原発問題
 第3に、中央でのエネルギー政策を「実施」する地方アクターが、独自のサブカテゴリーを形成している。その特徴は「地域のため」に原発にコミットメントをはかるという点にある。自治体首長や地方議員がそうであるし、地元住民の中で原発のもたらす補償や雇用などによる経済効果に期待する人々もこのカテゴリーに入る。また、政党(とりわけ自民党と民社党)や地方経済界を中心とした原発推進勢力も、原発のもたらす「効果」に期待する。さらにいえば、原発が来ることで漁場が汚染されたり生活環境が破壊されたりするという不安から原発建設に反対する(あるいは消極的評価を与えている)地元住民も、原発の「地域へのマイナスの効果」への関心であるとすれば、このカテゴリーに含めることが妥当であろう。こうして、地域での原発をめぐるコンフリクトは、原発を地域に導入することによる地域振興効果についての見解の相違という次元に収敏する。とりわけ、原発立地が直接自身の生活に大きく結びついて影響を及ぼす市町村レベルにおいては、その傾向が強くなると考えられる。
 この文脈においては、原発立地は地域の産業発展と福祉の向上を地域外から資本を導入することで実現しようとする「外来型開発」の一形態として理解することが適当となり、こうした開発の是非、あるいはこの開発を進める際の条件をめぐって、アクターが決定過程に参加しているということができよう。そしてこの視点から原発を見れば、原発は地域にとっては少なくない雇用68)や税収増をもたらし、しかも不況に強い「優良企業」であるといえよう69)。
 大飯町においても、原発受入れによって危機的であった財政状況は一気に好転した。その要因としては、地方税収入や交付金収入が急増することが主としてあげられるが、そうした財政制度が地方自治体にとって原発を受入れるインセンティブとなっているという指摘は、これまでにも数多くなされてきた。小林良彰と石上泰州は、「原発の誘致は受入れ地域に利益をもたらす」という論理が、推進側(政府・電力会社)と受入れ側(自治体・地域住民)との間に了解事項として存在していたとして、日本の原子力政策が着実な推移を示した背景となるこの論理について、新潟県柏崎市や福島県大熊町などの財政を分析することによって検討を行っている70)。その結果、現行の財政制度では、原発立地自治体は、電源三法などによる巨額の交付金や、固定資産税収入、電力会社からの寄付金・協力金が入ることで、自治体の財政状況が一気に向上することが示される。この効果には限界があることが問題点として指摘されてはいるものの71)、地方自治体が原発立地を受入れるインセンティブとして、財政効果が重要であることがここで示されているのである72)。
 ただし、この原発の財政効果に焦点を当てたアプローチにも限界はある。ここで分析の対象となっているのは立地市町村の財政であり、確かにこのような原発受入れによる直接的な財政的・経済的効果に期待した地域振興という立地地域イメージは、70年代に原発を取り巻く環境が大きく変化する以前の原発受入れ(誘致)についての理解については有効であったと考えてよいであろう。それは原発だけに限らず、過疎と財政危機という2つの困難な問題に直面した地方政府が、外来型開発に「後進性からの脱却」の夢を託す光景は、全国いたるところで見ることができた73)。「史上最大の陳情合戦」といわれた新産業都市地域指定をめぐる過程はその典型である。このような地方政府の行動はしばしば国の産業立地政策の「合理性」を逸脱させる結果となったが、大嶽秀夫によれば、補助金獲得をめざす地方政府が国の産業政策のための重点投資を負担するように(意図はともかく結果的には)国が地方財政を操作したということができ、これは中央政府と地方政府との政治的・経済的リソースの圧倒的差の反映であるとされる74)。しかしこの枠組みは、80年代における原発立地政策には通用しない。地方が先を争って原発を誘致する時代はすでに終わりを告げており、むしろ地方が原発立地に抵抗することによって、中央の立地計画は困難をきわめ、逆の意味で国の産業立地政策の「合理性」をゆがめる結果となったのである。
 ここで大飯原発建設の一連の過程に注目しよう。1・2号機増設の際には、基本的に町、県と国との間に大きな認識の違いはなく、原発立地を進めたい国と、それを受入れることを肯定的に評価する町・県との間で、手続きはスムーズに行われた。しかしながら、80年代に入っての3・4号機増設の過程では、町においての反対運動は弱体化しており、また社会党や共産党の議会内での勢力も増えてはいないにもかかわらず、手続き自体にはより長い時間がかかった。この原因はどこにあったのか。筆者は、手続き上地方自治体が持つ「拒否権」、とりわけ知事の持つ最終決定権に注目する。中川知事は、原発立地そのものによる直接的経済効果には多くを期待していなかった。むしろ、原発受入れを足がかりに、国に対して嶺南地域振興への協力を求めたのであり、原発はいわばそのための「バーゲニング・リソース」であった。そしてこの知事の戦略の追い風となったのが、原発の新規立地が大変困難となっており、すでに立地している地域が地域振興に成功していることが国としては不可欠であった、という状況である。また、町としても、原発受入れはあくまで町振興計画のための財源確保のための手段であったという色合いが強い。こう考えると、原発受入れにあたっては、アクターは原発そのものの直接的効果を第一義的に期待したのではなく、原発に付随するさまざまな制度が手段化されてアクターに受けとめられていると考えることが妥当であろう。このような現象は、原発が「迷惑施設」75)となった結果、それぞれのアクターにとっての「バーゲニング・リソース」あるいは他の政策目標達成の手段として、原発に対する意味づけが変化したために生じたということができる。
 もっとも、こうした制度自体は、原子力開発が始まった当初から基本的には変化していない。しかしながら、そのような制度的側面は変化せずとも、それを取り巻く環境が一変したことによって、すなわち原発の立地は進まないが建設計画は進むというジレンマが強く現れるようになったことによって、地方アクター(とりわけ最終決定権を有する知事)の手続き上の拒否権の有効性が格段に高まったのであり、その変化に応じてアクターが戦略を変えて行動した結果として、70年代を境とする日本の原発立地政策の転換が起こったと考えられるのである。なお、こうした「迷惑施設受入れ」から見た地域開発については、他のいろいろなケースとの比較がなされる必要があり、今後のさらなる精緻化が求められるところである。

2 3つのアクター群と政策ネットワーク
 これまで見てきたように、原発問題には、エネルギー政策、イデオロギー問題、地域開発政策という3つの性格づけが、それぞれ独立して存在し、それぞれに属するアクターは、異なる行動原理に基づいて動いていた。しかしながら、異なるカテゴリーに属するアクターどうしのコミュニケーションが不可能であるということではなく、原発立地政策というアリーナに属する町レベル・県レベル・国レベルの公私のアクターは、協力関係を保ちつつときには緊張関係を生じさせながらも、つねに政策過程に参加しているのである。つまり、地域振興政策の領域で行動する地方アクターは、政権党あるいは行政のルートを通じて、中央での原発に関する政策決定に関与することができ、逆に原発を着実に稼働させてエネルギー政策を円滑に遂行したいというテクノクラートの意向は、地域振興政策的性格を組み込むことで、地方アクターに反映される、という双方向の関係性が成立しており、こうして全体としての原発政策が推進されているのである。このように、各アクターがイデオロギーや政治的利害を共有してリソースを補完し合う相互依存関係を「政策ネットワーク」という76)。この政策ネットワークという概念は、70年代から80年代にかけて、公的決定過程のみならず「前決定過程」や「執行過程」への関心が高まる中で、政策決定や執行に関係する多数の人々や組織が複雑に関わり合っている様子を表現するものとして登場した。その中心となるのは、国家と社会の関係、すなわち、公的アクターと私的アクターの配置と組織化の状態であり、高度産業国家においては、国家と社会の相互浸透が進み公私のアクターが政策領域ごとに網の目のように結びつくことによって政策ネットワークが形成されていくと考えられる。
 ここで、ある政策に関する一連の過程をアクターの関係性と参加という観点から特徴づけて捉えていくとするならば、原発立地政策はどのように特徴づけられるのだろうか。その政策過程においては、中央省庁から県・町へとつながる「行政」のパイプと、政権党である自民党を軸にして国会・県議会・町議会へとつながる「政治」のパイプの2つが、いわば縦糸として3つの政府をつなぎ、それぞれのアクターは他のアクターと縦横に関係を持ちながら、電力会社や経済界・業界というアクターも巻き込みつつ、ネットワークが形成されているといえよう。さてその一方、社会紛争として原発問題を見た場合には重要なアクターとしてつねに登場する反対勢力は、どのように政策過程に参加しているのであろうか。ケースを見る限り、地方レベル(町レベル・県レベル)においても、国レベルにおいても、反対勢力は原発問題を争点化することには成功しておらず、決定過程に恒常的に参加し他のアクターとの交渉にも加わるということもない。すなわち裏を返せば、反対勢力が参加していない原発政策における政策ネットワークは、「原発推進」という共通の目標をいわば参加資格として排他的状態になっている一方で、電力会社や経済界という私的アクターの活動は公的アクターと緊密な関係を保ちながら行われているということであり、このネットワークを「寡占的共同体」77)として性格づけることが適当であろう。
 以上のように、原発立地政策に関わるアクターを3つに整理し、カテゴリーを越えてつながり合うアクターによる政策ネットワークの形成を見てきた。ただし、ここに登場するアクターはいずれも積極的に政策決定過程に参入している、あるいは参入をめざしているアクターばかりであった。大飯増設の過程においては、地域住民の多数は沈黙を守り、明確な立場表明を避けた、あるいは関心自体を示さなかったのであり、こうした住民をどのように位置づけるかが、今後の課題といえるであろう。また、地域住民のみならず、全国的には原発問題は国民的関心事であり、社会的争点としては認識されているものの、政治的争点化が行われることは少なく、それを不満として声があがるということもほとんどないのが現状である。このような「サイレント・マジョリティ」78)の問題を説明するのには、本稿で提示したフレームワークとそこに位置づけられるアクターを見るだけでは十分ではないように思われる。本稿でこれを詳しく検討することはしないが、これについては梶田孝道による「分離型紛争」モデルが示唆に富んでいる。梶田によれば、原発や新幹線などの大規模開発においては、加害者ないしは受益者の集合体としての「受益圏」は薄く広く拡大する一方で、被害者ないし受苦者の集合体としての「受苦圏」は局地化する。そして社会全体に広がった受益の「集約的代弁者」としてテクノクラートが登場し、地域住民との「国家権力対一部反対派住民」という主体間の紛争となってコンフリクトが表面化するのである79)。ここで重要なのが、社会の大部分の人々にとっては、自分が一部の人に過剰な負担・受苦を押しつけている当事者であるという自覚が起こらないために、問題解決に向けての社会的コンセンサスの形成はきわめて困難であるということである。すなわち原発問題は全国規模の、また社会全体の問題なのであり、とりわけ原発によって生み出される電力の恩恵を享受する都市の問題という視点から、原発問題を捉え直すことが必要なのではないだろうか。
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日本における原子力発電所立地受入れの政治過程 (3)関西電力大飯原子力発電所増設をめぐる政治過程 4  政治のはなし

(3)小括
 これまでに行われてきた原発立地政策についての研究の多くは、「中央のエネルギー政策としての原発」という視点から、国家のエネルギー戦略を中心に据えてその目標の達成という面に焦点がしぼられていた。そこに登場するのは国レベルのアクターであり、立地地域である町や県のレベルでのアクターは、その中央での決定の実施者としてのみ考察の対象となり得たのである。しかし、大飯のケースにおいて登場する知事や町長といった地方アクターの動きは、そのような地方アクターの理解では不十分であることを示している。地方アクターにとっての原発問題へのアプローチは、国家戦略に組み込まれるという受動的な形でではない。ケースからはむしろ、地方にとって「地域振興の必要性」が半ば自明のものとして存在しているという状況下にあって47)、地方アクターがその具体的な手段として原発を積極的に活用しようとしている様子をうかがい知ることができた。さらに、たとえば知事と県議会、あるいは県と町での意思決定に際しての態度のズレは、「地方アクター」の中でも、地方政府内、また地方政府間の政治過程に注目する必要性を示しているように思われる。これらをエネルギー政策としてのみ原発立地の問題をとらえることによって理解することは難しい。しかしながら、原発立地政策が国家のエネルギー戦略に深く組み込まれているということもまた、まぎれもない事実なのである。
 そこで次のような説明は可能であろうか。すなわち、原発問題に関係するアクターの原発に対する関わり方は同一ではなく複数設定することができ、そしてそれぞれに分類されたアクターは他のアクターと互いに関係を持ちながら、その総体として「原発立地政策」のアリーナが構成されている、と考えることとするのである。
 次章ではこのような視角を基軸として考察を進めていく。まずはじめに、それぞれのサブカテゴリーについてのより詳細な考察を行った後、それを横断してアクターどうしをつないでいる「ネットワーク」の存在について触れることになる。
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日本における原子力発電所立地受入れの政治過程 (3)関西電力大飯原子力発電所増設をめぐる政治過程 3  政治のはなし

(2)関西電力大飯発電所3・4号機増設
 関西電力から、大飯3・4号機増設のための事前環境影響調査の申し入れが、大飯町、大飯町議会、大島漁協の三者に対して行われたのは、1981年8月25日のことであった。こめ年の4月には日本原電敦賀原発で放射能漏れ事故があったばかりで、その責任問題や補償交渉などが未解決であっただけに、この申し入れは各方面に波紋を投げかけた。また、県も関電の頭越しの動きに不快感を表明する。原発難設に反対する諸団体は、27日に緊急の対策会議を開いた。この段階で各アクターはどのように原発推進をとらえていたのか整理してみる23)。まず大飯町であるが、猿橋貫一町長は「手元に預かっている段階」として慎重な態度を見せる。ただし、大飯1・2号機があることによって町の財政は急激に拡大している上に、申し入れ直前の19日には、通産省が立地自治体に交付される交付金の財源を増やす措置を翌82年度からとる方針を打ち出しており、増設によるさらなる財政効果を期待するモチベーションが町としては高かったとみられる。大島漁協としては、すでに大飯1・2号機建設の段階で漁業権放棄の問題は解決しており、関電との交渉のテーブルにつくハードルはきわめて低いものであった。
 一方、福井県で積極的に原発を推進してきたのは、自民党と民社・同盟系の勢力、そして地元経済界であった。放射能漏れ事故を起こした日本原電敦賀原発が通産省から6カ月の運転停止処分を受け、原発が評判を落としたことに対して「巻き返し」をはかったのがこれらの勢力である。6月には、敦賀で「失地回復」をはかる大集会が開かれる一方24)、原発推進を求める34万人分の署名が集められた25)。ただし、県議会の圧倒的多数を占める県会自民党26)は、77年、敦賀市に建設の計画が浮上している高速増殖炉原型炉「もんじゅ」以降の原発の新増設を昭和60(1985)年までは認めないという「60年歯止め決議」を行っており、これが大飯増設を促進する上での障害となりうる可能性はあった。大飯町議会の多数を占める保守会派「政新会」に所属する町会議員たちも、町内の声に配慮しながらも、基本的に原発推進の姿勢であった。また、原発新増設で最終的な「可否判断権」を持つ県は、「安全が確保されること」「住民の理解と同意が得られること」「地域の恒久的福祉がもたらされること」という「原発三原則」を原発受入れの指針として掲げており、中川平太夫知事はこのうちの地域の恒久的福祉に対して国の関心が低いことに不満を抱いていた。この不満は大飯増設について知事の判断が求あられる段階になって表面化する。なお、中川知事は「県民党」を名乗り自民党とは一線を画しており、中川与党には原発反対の姿勢を貫く社会党も含まれていた。
 他方、原発に対して反対の立場を表明している団体が福井県下にはいくつか存在した。立地自治体の大飯町には「大飯町住みよい町造りの会(町造りの会)」、敦賀市には「高速増殖炉などの建設に反対する敦賀市民の会(敦賀市民の会)」が、隣接自治体である小浜市には「原発設置反対小浜市民の会(小浜市民の会)」といった団体が、横の連絡を密に取り合いながら積極的に活動していた27)。また、県議会や知事に対する申し入れを行い、全県的な行動を起こすにあたっては、「原発反対福井県民会議(県民会議)」がその中心的役割を担っており、町造りの会などは幹事団体としてこれに加わっていた。こうした団体には、個人での参加以外に政党や労組レベルでの参加があり、地方議員や専従職員が中心となって日常的活動を支えていた。全国的に見ると、社会党系勢力と共産党系勢力は、反核運動をめぐって分裂し、原発についての認識も異なっていたのだが、福井県では両勢力ともに強いとはいえないという事情もあって28)「社共共闘」が行われ、デモの時には別々の方法をとったりはしても、普段は一緒に活動していた。「放射能は危ない」「なんとかして止めなければ」という参加者個々の危機意識によって、原発という共通の敵の前で「大同団結」が行われていたのであり、デモ・集会の際にはこれに都市部の新左翼系運動が合流したりもしていた。デモや集会を行って世論を喚起し、署名を集めて首長や議会に申し入れるというのが一般的な活動方法であった29)。
 さて、8月27日の原発反対勢力の緊急対策会議においては、一連の手続きの中で反対派の立場から地元が介入できるのは、差し迫っている事前調査受入れ判断のタイミングと、電源開発調査審議会の地元同意取り付けの時期という2つの機会しかないことが指摘され、また、すでに大飯町は町財政や施設面から雇用にいたるまで「関電べったり」であることが公然の事実となり、住民が本音を明らかにできないという認識で一致した。こうしたことから第1回目のチャンスとして、調査受入れについての審議が行われる予定である9月20日過ぎからの定例町会を前に、各種団体向けの「草の根作戦」によって、町民に増設反対の再認識を促して運動を盛り上げていく方向で進められることになった30)。そしてこれ以降、反対運動は、地域での勉強会や広報活動を地道に展開する一方で、重要な手続き上のタイミングにはデモや集会、ハンストなどを行って世論へのアピールを試みる戦術をとる。しかし、関電からの申し入れを受けた三者のうち、町長と大島漁協は9月の段階で同意を表明し、残った町議会も10月16日の本会議で調査促進決議を賛成多数で可決した。ただし、まだ町内の反対の声も大きく町民のコンセンサスづくりが残っているとして、猿橋町長は町政懇談会を町内30カ所で開催し、町民に理解を求めていく方針を示す。
 一方県レベルではこの事前調査についてはまだ慎重に対応されていた。一つには、この時期県としては敦賀原発事故問題と「もんじゅ」建設問題の方がより重要な課題であったということも理由としてあげられよう。知事は「敦賀原発事故に伴う補償問題が解決し、住民の信頼が回復されるまでは言及できない」と9月県会で表明し、県も「大飯町や関電から正式な話があるまでコメントできない」と慎重な構えを見せている31)。12月になると自民党県連が原子力部会を開き、敦賀原発再開と「もんじゅ」建設問題とともに大飯増設問題について協議し、地元からの陳情が出た段階で改めて協議することで決着する。
 12月8日、猿橋大飯町長が定例町会で正式に受入れを表明したことで、町内での調整に決着がつけられ、10日には事前調査促進を求める陳情・請願が町長から知事と県議会に対して提出された。さらに翌82年2月15日の関電から県への事前調査入りの申し入れを受けて、これらに県として同意を与えるかという形で、大飯増設問題が県レベルでの争点として公式に浮上する。3月の定例県会の会期中に県会自民党は総会を開き、争点の「もんじゅ」受入れと大飯増設の取り扱いを協議し、「もんじゅ」については中川一郎科学技術庁長官32)の示した「県益」33)を評価して建設に同意し、・大飯増設についても立地を促進させることで一致した。この場では執行部が「60年歯止め決議」解消を提案し34)了承され、これによって大飯増設を県として検討する上でのハードルは一気に低くなった。3月29日の繰り越し県会環境対策特別委員会で、大飯町長および自民党県連大飯支部から出されていた「関西電力大飯原発3・4号機増設に伴う調査促進に関する請願」を賛成多数で可決し、続く本会議でも賛成多数で可決する35)。5月には県も、知事が「もんじゅ」建設に同意したことで、後回しにしていた関電の事前調査入りの手続きを認めた。「地元の大飯町がすでに了承し、県会でも事前調査入りの請願が採択されて」いることから「原子力行政全般の流れ」を勘案してのことであり36)、「調査と建設は別」の立場をとってはいるものの、建設を前提とした事前調査入りを了承したことで、大飯増設問題は大きく前進したことになる。
 関電が調査を進める間、反対運動は、関電の内部告発文書を入手して公表したり、科技庁傘下の特殊法人である動燃(動力炉・核燃料開発事業団)が敦賀市の神社に寄付行為を行ったことに抗議したりと、原発企業のイメージ戦略に対抗する一方で、県議選立候補者や大飯町長に対する公開質問状を送付するなど、しばしば一般市民に対するアピールを行い、世論の喚起を促している。議会では社会党あるいは共産党の議員がたびたび質問に立ち、知事や町長に対して同意を与えないよう要請している。そして、関電の調査終了後、83年9月、「原子炉設置に影響を及ぼす断層はない」などという事前調査報
告書が、そしてそれに引き続いて大飯原発3・4号機の増設願が関電から提出されたことで、手続き上の第2回目の機会が訪れると、「住民の意思を無視した手続き」に反対し「住民の本当の意思を確認する」ために、住民投票を実施するように働きかける。大飯町では町造りの会が住民投票条例制定の直接請求手続きを開始し、署名集めを始めた37)。これに対して町議会の保守会派「政新会」は「住民投票は町内を混乱に陥れるもとであり必要ない」という内容のビラを町内全戸に配布した。また猿橋町長もしばしば「住民投票は不要」と発言してこの動きを牽制する。
 このような大飯増設の動きに対し、当の大飯町民はどのような反応を示したのだろうか。町造りの会が集めた署名は、最終的には665人(うち有効は609人)分となった38)。大飯町の有権者数が4,682人であったから、およそ7分の1に相当する数である。一方で、町と町議会は『町政懇談会を町内の各地区で開催して回り、原発増設の概要と事前調査の内容の報告を行っていく。この町政懇談会に出席したのは655人であった。一町民として直接意思表示できるこれら2つの機会に関わった町民の数は、両方合わせても有権者数の半数にも満たず、町民の多くは原発増設をめぐる町内の動きを静観していたと考えてよいであろう。ただし、この当時すでに多くの町民が原発関係の職に就いたり補償金を受け取ったりしており、その親族を含めると、1,600戸余りの大飯町で原発にまったく縁のない生活をするということは大変難しい状況であった。意思表示をしなかった過半数の町民にとって、原発増設は言わずもがなであったのか、それとも口にするのをはばかられることであったのか、これについては推測するよりほかはない。
 ところで、大飯町はこの時期「第2次町振興計画」の基本構想を策定中であった。これは95年を目途として、上下水道の整備、多目的ダム着工、観光開発、企業誘致や総合運動公園建設のための公有水面埋め立て、を4本柱として進められる予定のものであり、この財源については、3・4号機増設による交付金や地方税による収入が見込まれていた。この計画案は9月町会に町長から提出され、猿橋町長は、町振興計画を早く実現せよという声に応えるべく早く増設の申し入れをしたいと表明し、振興計画と増設受入れをワンセットで考えていることを明らかにしていた。すなわち、町としては原発の財政的メリットを強く意識して原発問題に対処していることがはっきりとここに示されたのである。この計画案は84年1月17日町会で可決され、実質的に3・4号機増設が町として同意された。正式な同意は2月1日の町会で増設同意案が可決されて行われ、14日には町長が助役、町会議長、議員らとともに福井市に赴き、中川知事に口頭で建設に同意するように要請するとともに、県議会に対しても池端昭夫議長に建設促進の請願書を提出した。ここで大飯町としての増設問題への対応は事実上終了する。
 一方で県としても、嶺南地方の地域振興を重要課題として認識し、84年早々から、そのための手段として地域振興整備公団の「中核工業団地」誘致に乗り出している。その背景には、電源三法交付金の使途が、道路、水道、教育・文化施設などに重点がおかれているために、嶺南地方の産業構造を高めて住民の就業の場を確保するにはいたっていないという認識があり、そのためにも、国に対して働きかけることによって、中核工業団地誘致などによる産業基盤を含めた広域整備を行い、原発と地域との恒久的な共存の関係を築き上げることが必要である、という認識があった39)。84年1月に中川知事は上京し、牧野県企画開発部長とともに小此木彦三郎通産相を訪ねこの問題について陳情を行い、国土庁と地域振興整備公団に対しても、84年度予算に工業団地調査費を復活させるよう強く働きかけている。この年の国の予算獲得には失敗したものの、県予算には独自の調査費がつけられ、知事の工業団地誘致に対する意欲が示された。このように、県としては嶺南の恒久的振興に主眼をおいており、即座に原発増設に同意する状況にはなかった。そのため、増設の早期促進を図る大飯町や自民党との問に微妙な温度差が生じていたといえる40)。3月県会の予算特別委員会で自民党議員からの質問を受けた知事は、「地元(大飯町)を尊重し三原則で結論を出す」が「私は県の責任者という立場で意見を述べる。決断を下すまでに十分調査、検討を加える」41)と表明し、あくまで増設については慎重な姿勢を崩さなかった。結局県会自民党としては、大飯増設問題については委員会での審議に一任するということで、総務教育委員会での審議に入ることとなった。3月22日の同委員会では、深夜に及ぶ審議の末、大飯町長などから出されていた増設促進請願など2件が採択され、県民会議などからの計画に反対する陳情など6件が不採択となった。続く本会議でも賛成多数で委員会の採択通り決定し、ここに増設問題についての県議会の態度が決定する。
 増設に向けての手続きは進行し、84年4月、関電からの環境影響調査書と自然環境調査報告書が県に提出され、環境影響報告書に関する大飯町での地元説明会が行われた。関電は質問に対して終始スムーズに回答し、安全面をアピールしている。県はこの報告を受けて、自然環境保全審議会に諮問し内容の検討に入り、塚野善蔵福井大名誉教授を部会長とする自然公園部会から指摘された問題点について修正を加えた関電からの縮小案が9月同審議会で了承された。また、通産省主催の第1次公開ヒアリングが11月16日、反対派が参加をボイコットする中で行われた。そして公的手続きの上では、あとは電調
審で大飯3・4号機を基本計画に組み入れて正式に国家プロジェクトとして位置づけるだけとなった。この基本計画組み入れの際には知事の意見が必要とされているために、事実上中川知事の最終判断を待つのみとなったのである。手続きが進むこの間にも、反対運動は有効な手だてを講じることはできないでいる。県民会議が、県に対し、環境影響調査書・自然環境調査報告書について「内容が非科学的でずさん」として公開質問書を提出したり、公開ヒアリングを前にして町造りの会が町長に「形骸化したヒアリングに同調すべきではない」と開催の中止を申し入れたり、また、環境影響調査書の地元説明会や公開ヒアリングには参加せず、会場周辺でビラまき・デモ・集会を行い、拡声器でシュプレヒコールをあげるなどの行動を起こしているものの、いずれも目立った反響があったようには見られない。このように、反対運動と行政当局や電力会社との直接の対話はなく、共通の土俵が設定されることも仲介者が現れることもなく、両者の主張は平行線をたどったまま淡々と手続きが進んでいくという状態であった。また、県民会議は「公開ヒアリング阻止闘争本部」を設置し、小浜で独自の住民ヒアリングを実施したり、また小浜では郵送による市民投票を実施したりもしている42)。しかしながら、こうした嶺南での反対運動が、全国レベルはおろか、福井県内においても耳目を集めて争点化された様子はなく、地域的に限定された反対闘争であったということができよう。
 ところで、県として嶺南の開発に取り組むことが表明されたことで、大飯原発増設に関係する当事者は嶺南全体にまで拡大し、これをきっかけとして独自の地域振興策を打ち出そうとする試みが始まる。大飯町に隣…接し、敦賀と並んで嶺南の中心都市である小浜市は、中核工業地帯の誘致に名乗りを上げ、用地買収に乗り出した。小浜市は、上中町、三方町と並んでその候補地にあげられるのだが、土地単価や敷地面積の点で適地を見つけることができず、誘致を事実上断念し、かわりに用地買収を進めてきた用地に大学を誘致する方向で検討を進めることになった43)。計画は、関西から理工系大学を誘致し、
そのための100億円以上の費用の一部は関西電力からの寄付によってまかなうというものであった44)。県もこの動きを支援し、一時は京都の私立大学が候補として浮上したが、最終的には福井県立大学の小浜学舎が設置されることで決着する。
 こうして、いよいよ知事が判断を下す環境が整いつつあった。公開ヒアリングが終了し、電調審での大飯3・4号機基本計画組み入れが近づいた84年12月の定例県会では、知事は県会自民党から意思表示を促される。知事は答弁の中で、「国の理解ある対応を求め、真の地域の発展は何かを見極めていきたい」「いろいろ要望しているが、国においては、恒久的福祉に十分理解していただいていない」「(判断材料は)個々の具体的なもので考えるのではなく、恒久的福祉に対する理解だ」45)と、嶺南振興に対する国の認識とのギャップにいらだちを示し、年の瀬の県会自民党執行部の通産省資源エネルギー庁などへの陳情とは別に、年明けの85年1月25日、通産省を訪れ、村田敬次郎通産相に原発立地に伴う地域振興策を要請した。要請の内容も、県会自民党が申し入れた電源立地促進対策交付金制度の拡充や電源立地特別措置法の制定などの「県益」実現の要請に加え、中核工業団地造成に力点をおいて嶺南振興を強調したものであった。この会談の結果に満足した知事は46)、1月30日、「大飯3・4号機を本年度電源開発基本計画に組み入れることに異議はない」という2週間前に照会を受けていた電調審への意見書を経済企画庁に提出し、2月15日、関西電力と県との安全協定に基づき、正式に関電に対し増設を了承した。こうして大飯増設は県レベルの意思決定を終え、あとは国による安全審査を経て、着工を待っばかりとなったのであるが、この席上での沢村県企画開発部長の関電に対する次のような申し入れは、県として原発受入れを国策への協力としてとらえ、その見返りを強く意識したものであるということを、端的に表しているのではないだろうか。

「関西電力の原発はすべて本県に立地していることを十分認識し、安全性確保につとめ、地域振興に寄与してほしい。」
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日本における原子力発電所立地受入れの政治過程 (3)関西電力大飯原子力発電所増設をめぐる政治過程 2  政治のはなし

2 ケース20)
(1)増設前史
 大飯町は福井県のほぼ西端、若狭湾国定公園の美しいリアス式海岸をもつ、人口およそ7千人のまちである。福井県の若狭湾沿岸は「嶺南」と呼ばれ、北陸トンネル以北の「嶺北」とは歴史的にも異なる発展を遂げてきた。JR北陸本線、北陸自動車道が貫通する嶺北(とりわけ、福井市を中心とする福井坂井地方、鯖江市・武生市を中心とする丹南地方)に比べ、嶺南は地理的にも経済的にも県内でも周辺的地位にあることは否めない。県の人口は82.7万人(95年10月国勢調査)。基幹産業として繊維産業が地域経済を支えてきたが、構造不況にあえいで久しい。原子力発電所が立地しているのは嶺南地方のみであり、15基が集中している様子を形容して「原発銀座」と呼ばれることもある。
 その大飯町で原発誘致の話が具体化したのは、1969年1月1日、時岡民雄大飯町長が町議会や地元関係者に原発建設計画を示して意向を打診し、引き続いて町長が建設候補地の調査願書を県に提出したことに始まる。建設候補地の大島半島には陸路がなく、町役場のある本郷地区や小浜へ出るためには渡し船を利用するしかなかった。道路建設は大島半島の住民にとっても町行政当局としても、いわば悲願であったのである21)。しかしながら、当時の大飯町は深刻な財政危機に見舞われていた。53年の台風による風水害は町の財政に深刻な影響を及ぼし、57年からは地方財政再建整備法の適用を受けており、とても町の単独事業での道路建設どころではなかった。さらに町の人口流出や第1次産業従事者の高齢化は深刻であり、70年には過疎地域の指定を受けている。財政危機と過疎化という2つの大きな課題を背負ったこのような町勢からの脱却を目指し、町の活性化と地域振興をはかるための施策として、原発誘致計画が打ち出されたのである。原発建設反対の声もあがったものの、町内では大きな勢力となることはなく、建設に向けての手続きはスムーズに進行する。69年のうちに町議会が原発誘致を決議し、大島漁協と関電との漁業補償仮協定締結、地主代表者と関電との土地売買協定締結が済む。70年中には関電が県に対して建設協力願提出、県は協力する旨を回答し、10月には国の電源開発調整審議会において大飯発電所1・2号機が承認されるというスピード決定ぶりであった。
 しかし、71年5月、米国原子力委員会のECCS実験での欠陥発見が報じられると、これが町内での原発反対の動きへの追い風となった。町が全面的に関電に協力するという内容の、町長と関電との極秘裏の「仮協定書」(69年4月締結)の存在が明らかになったこともあって、町内の原発反対の空気は一気に盛り上がり、町政は大きな混乱に陥ることになる。71年6月には「大飯町住みよい町造りの会(町造りの会)」が結成され、町長に建設中止の要望書を提出する。町議会も「原子力発電所の安全性に関する意見書」を採択し、町長の政治姿勢への不快感を表明する。7月に入り、町長は「仮協定書」の破棄を表明するが、混乱は収拾されず、町造りの会は町長のリコール署名運動を開始する。さらに区長役員会も町長退陣要求を決定するに及んで時岡町長は辞職し、次の町長には永谷良夫氏が無投票で選出された。新町長は町議会で「原子力発電所誘致が大飯町にとってプラスになるかどうか、もう一度細密に検討し直されなければならない」と発言、そして町政懇談会の席上でも、原発工事の一時中止の意向を表明し、県と国に対して関電への大飯発電所原子炉設置許可を延期するよう陳情する。町長のこのような態度に対して、町議会は議員提案の工事一時中止決議を否決し、大島地区では「大島を守る会」が結成されて原発推進請願署名運動を開始するというように、原発建設推進の動きが町内で始まる一方、原発反対の署名運動も行われ反対運動も活発化した。この混乱を収拾すべく、72年3月、町長と町議会が中川平太夫知事に紛争収拾あっせんを依頼する。これを受けて知事が「平穏に建設を進める」という前提であっせんを進めた結果、4月には県・町・関電三者による工事一時中止の基本協定が結ばれ、7月に安全協定および地域振興協定が締結されて、建設工事は再開されることとなったのである22)。
 このように、大飯1・2号機建設の際には、大きな町内での紛争を引き起こしたものの、関係するアクターは基本的に町レベルのアクターと電力会社に限定され、知事は(建設を前提としているとはいえ)中立的仲裁者としての立場を期待されてのみ参加することが可能であった。また、手続き自体は1年半、また紛争収拾まででも2年半と、かなりスムーズに事態が進行したという印象を受ける。しかしながら、権利関係についてはすでにあらかた整理がついているために新設よりもスムーズに手続きが進行することが予想され、しかも実際の過程においても大きな社会紛争を生じさせることなく進められた大飯3・4号機増設の意思決定には、これよりも長い時間を要することになるのである。
 さて、72年から本格的に大飯原発建設の工事が始まり、79年3月からは1号機が、同年12月からは2号機が、相次いで運転を開始した。着工以来大飯町の歳入は国庫支出金と寄付金を中心に著しい伸びを示しており、運転が始まった80年度からは地方税収入が一挙に5倍に拡大し、普通交付税不交付団体となった(図表5)。ここに新たに関電が3・4号機を増設する計画を持ち出し、大飯町に事前調査の申し入れを行う。81年8月のことである。折しもその年の4月には、同じ福井県嶺南地方の敦賀市で原発から放射能が漏れ出し、旅館のキャンセルが相次いだり、福井県産の海産物が関西や中京の市場から荷受けを拒否されるという被害が出たばかりであった。つまり、関電の大飯増設問題が浮上した時期には、原発が立地するメリットもデメリットも、また原発立地の効果の具体的な実体も一通り福井県や大飯町には(自治体当局にも住民にも)把握できていたことと考えられる。このことは、80年代前半という時期における原発増設の意思決定過程において、これまで「建て前」で粉飾されたことによって見えなかった部分に代わり、原発の負の側面まで見据えた「本音」の部分が表面化してくる、すなわち各アクターが原発に対して与えている評価がそのまま行動となって現れてくる、という可能性を示唆している。次節において筆者が大飯増設問題を扱おうとするのは以上の理由からである。
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日本における原子力発電所立地受入れの政治過程 (3)関西電力大飯原子力発電所増設をめぐる政治過程 1  政治のはなし

V 関西電力大飯原子力発電所増設をめぐる政治過程

1 電源開発手続きと財政制度
 本稿で原発受入れの政治過程を分析するに際して、その対象として選んだケースは、福井県大飯郡大飯町に立地する、関西電力大飯原子力発電所に関してのものである。大飯原発では現在、最大電気出力117.5万kwの1号機と2号機、同118万kwの3号機と4号機が運転されていて、この4基だけで京都・滋賀・奈良3府県の総消費電力をまかなうことができるほどの巨大な発電所であり、関西電力の設置している原発の中では最新のものである。
 この大飯原発と大飯町についての記述を始めるにあたって、まずその前に電源開発の制度体系について若干の説明を行っておきたい。
 原子力発電所の新増設は、電源開発手続きに則って進められなければならない。その手続きは基本的に、電力会社と地元自治体・住民との直接交渉に委ねられており、地元市町村の同意や用地問題・漁業補償問題の解決を受けて、知事および関係省庁が同意を与えることで、国の電源開発調整審議会(電調審)17)によって電源開発基本計画に組み入れられ、その後いくつかの国による認可を経て、工事計画が認可される運びとなっている。この手続きは水力発電所や火力発電所の建設のときも同じであるが、ただし原発には特別に二度の公開ヒアリングと安全審査が必要とされている(図表4)。
 このように、原発立地を進める際には「地元の意見」が求められるが、それは立地市町村と知事の同意によって代表され、これ以外には手続き的には必要とされない。そして、住民の直接の声が入る機会としては、公開ヒアリングや、首長や議会が自主的に開く懇談会などがあるが、あくまで参考意見を求められるにとどまり、公的に保証されたものではない点をまず指摘しておきたい。これが、アメリカや西ドイッなどと比べて日本は「拒否権地点が少ない」といわれる所以である。
 また、電源開発手続きとともに重要なのが、電源三法交付金をはじめとする一連の「電源立地促進財政制度」である。1970年代になると、原発反対運動が高揚し新規立地が難しくなっているにもかかわらず、石油代替エネルギーである原子力発電をできるだけ早急かつ大量に開発しなければならないというジレンマに原発がさらされていたことはすでに述べたが、これに対処すべく通産省は、従来のような体制・法制度だけでは原発の円滑な立地が進まないという認識のもと、74年には新たにいわゆる「電源三法」(発電用施設周辺整備法、電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法)を制定した。その後、立地が難航する中でこうした一連の財政的措置は81年以降毎年少しずつ拡充されて次第に多様化し、その対象は公共用施設のみならず地域産業の振興や福祉の充実などにも広げられ、地域の生活に関係するほとんどの事がらに対して補助金が交付されるようになっている18)。また、財政についていえば、税制の影響も大きい。村松岐夫の指摘にもあるように、日本の地方税制が固定資産税や事業税法人割を一般財源としていることで、地方政府が工場誘致に魅力を感じる一因となっているといえる19)。
 これらを踏まえつつ、次節からは実際に大飯町が原発を受入れる過程を検証していくこととしたい。
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日本における原子力発電所立地受入れの政治過程 (2)日本の原子力発電 2  政治のはなし

2 エネルギー政策としての原発立地政策研究
 さて、原子力発電が社会問題として広く認識され、高い関心を集めていることについては、よく知られている。原発をめぐって、安全か危険か、また必要か不要かという論争が繰り広げられることはしばしばである9)。そして、これまでもさまざまな角度から原発に対するアプローチが行われ、優れた研究がなされてきた。そうした従来の原発へのアプローチの方法の中にあって主流となってきたのは、国レベルの視点から国家のエネルギー戦略を分析したもの、すなわち「中央政府のエネルギー政策」としての原発問題へのアプローチであった10)。
 原子力発電を日本の総合的なエネルギー政策の一環として位置づけ、通産省をはじめとした政策担当者の視点から、原子力エネルギーのおかれた状況について他のエネルギーとの比較の上で考察すれば、日本(政府)が原発に大変重要な意味を与えていることが日本の原子力行政の特徴として浮かび上がる11)。そしてその主張の中心となるのは、75年の総合エネルギー対策閣僚会議での決定に見られるように、「日本は、経済の安定成長のために、石油の安定供給と石油代替エネルギーの開発という政策課題を設定し、この目標に向かって努力している」という点であり、それゆえに原発は、石油代替エネルギーの1つとして、石炭、天然ガスと並んで重要なポジションに位置づけられ、さらにその準国産資源としての性格から少資源日本の「切り札」であり続けたのであるとされる12)。このように、中央のエネルギー政策という点から原発を理解すれば、国(具体的には通産省)の設定する政策目標を実現するための手段として原発が位置づの安定的確保」という1つの客観的な「国益」と呼ぶべき基準に求められるのである13)。
 ただし、「日本においては原発が国家戦略の切り札であるために、立地が進められてきた」というだけでは、日本において原発が着実にその数を増やしてきた理由を説明したことにはならない。というのも、「省エネルギー」「石油代替エネルギーの開発」といった日本の「国家目標」は、実はオイルショック以降の先進国にとっては共通の政策課題であったのである。しかし結果は、国によってエネルギー政策にはばらつきが生じ、石油代替エネルギーとしての原発の推進にも順調な国とそうでない国とが生まれた。日本はその中で、上記の政策課題を比較的うまくクリアし、原子力政策も決定から実施まで順調に進められているとされる。そこで、この目標の「達成度」を国際的に比較し、各国間の制度配置の相違からその達成度を違いを説明するのが、第2のアプローチとしてあげられる。コーヘン、マッカビンズとローゼンブルースは、日米の原子力政策を比較して、日本の原子力がアメリカに比べて急成長した理由として、反対勢力が政策に関与できるポイントが少なくまた行政手続きが簡単なために原発のコストが低いこと、急激に電力消費が伸びたこと、自民党一党支配と保守系知事によって必ず運転できることが保証されておりリスクが小さいこと、などをあげている14)。また、フェイゲンボウム、サミュエルズとウィーバーは、先進5力国(日本・アメリカ・カナダ・フランス・西ドイッ)のオイルショック以後のエネルギー政策の違いを、各国のスタート地点の違いと政治制度の違いによって説明する。ここではとりわけ政治システム内部の「拒否権地点(vetopoint)」の数と有効性が重要とされる。そして日本は、一党優位政党制と中央集権制、非活動的司法と自律的官僚という制度条件によって、換言すれば、強い大統領と自律的官僚制などを特徴とするフランス同様に拒否権地点が少なく有効性も高くないということで、民間セクターによって省エネル
ギーと高い経済成長を同時に達成し、エネルギー源の多様化に成功したと分析され、原子力エネルギーの順調な伸びも、たとえば西ドイッでは議会や司法を通じて原発問題が噴出したためにその実施が困難となったことと比較した上で、こうした制度的背景によって理解されるべきであるとされるのである15)。
 しかしながら、このような国レベルのアクターにのみ焦点を当てたアプローチでは、立地地域における実際の動きを説明できない。確かに、日本において稼働する原子炉の数は順調に増加するが、しかし現実には、先に触れたように、新しい地点での原発立地は70年代以降事実上ストップがかかっており、60年代に計画されたサイトがやっと80年代に完工したり、70年代に立地が進んだ地点で新たに増設を行うことによってかろうじて新しい原子炉の設置を達成したりと、政府の原発立地政策そのものが政府の高い能力によって一貫して順調に進んでいるとは言い難い。すなわち、原発建設はコストや時間の面で必ずしもスムーズに進んでいるとはいえず、しかも原発建設についての対応は地域ごとにまちまちである、という現状を理解するためには、こうした国レベルの視点だけでは不十分であると言わざるを得ず、このような制度比較からの原発問題へのアプローチは、日本で国家としての原子力政策が強力に推進される可能性は提示し得ても、実際に原発が建設されるその現場での政策の有効性を確認することまではできていない。これを可能とする方法の1つとして、筆者は本稿で「地方」と「政治」に注目する。これについては次に紹介するラスビレルによる北海道電力泊原発建設過程の研究が示唆に富んでいる16)。
 ラスビレルは、従来の日本の原発政策研究が、政策実施構造の分析を意識しすぎることを指摘する。この従来のアプローチによれば、日本が西欧の流れと対照的に70年代から80年代にかけて着実に原発を増加させてきたのは、日本の官僚構造、法的・規制的枠組、補償制度によって、政府が原発推進という目標達成を容易に実現できたためだとしているとする。しかしこれでは、なぜ建設にかかる時間と経費が格段に増加しているのかを説明できない。そこでラスビレルは、アクターが各々の動機づけやその時置かれていた状況によってとった行動を重視して、原発政策の実施過程を分析する。ケースとして選ばれた泊原発の建設には、84年の認可までにi6年の歳月がかかったが、これは2-3年のリードタイムで済んでいた60年代と比べるときわめて長く、また補償にかかった費用も大幅に増加している。ラスビレルは、このように泊原発の建設が進まなかった理由を、当初は北海道電力も自民党も原発建設についてはさほど積極的ではなく、また地元町長にとっては原発建設に反対する漁協と社会党を無視できなかったためであるとする。それが70年代の半ばごろから、将来的な電力供給不足を予測した北電が原発開発の方向へ動いたことに加え、ソ連の200海里水域設定のあおりを受けて沿岸漁業振興のための資金が必要となった漁協にとって補償が魅力的に見え始めたこと、そして補償交渉を後押しする形で電源三法が整備されたことなど、アクターを取り巻く状況が変化したために、原発建設が可能となったとラスビレルは分析している。そして、中央政府にとって有利な政策実施構造があったといえども、実施レベルでの中央政府のコントロールは間接的でしかないために、実施現場のアクター間での相互作用の結果生じた中央政府との視点のズレが中央政府の目標達成を抑制したと結論づける。
 ラスビレルのこの研究は2つの点で重要な指摘を行っている。まず第1に、日本の原子力政策が、制度としては中央政府の目標達成、すなわち原発建設推進に有利なようになっているとはいえ、それが必ずしも円滑な実施に結びつくものではないということである。第2に、中央政府の目標と実施現場のアクターのそれとが一致するとは限らないということである。そしてそれゆえに、実施段階での「拒否権」を持つ関係者が、中央政府の目標達成を抑制するということが、泊原発のケースによって報告されているのである。
 よって本稿では以下、地方アクター独自の動きと中央政府のエネルギー戦略との関係について考察を進めるにあたって、地方に与えられた拒否権に注目し、受入れの段階における地方独自の原発政策への関与が存在することを明らかにすることを目指す。
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日本における原子力発電所立地受入れの政治過程  (2)日本の原子力発電 1  政治のはなし

U 日本の原子力発電

1 日本の原子力開発の歴史と特徴
 日本の原子力政策は、1954年、民主党の中曽根康弘を中心に進められた保守3党による原子力予算の計上をもって幕を開けた。翌55年には、自民・社会両党による議員立法として「原子力三法」(原子力基本法、原子力委員会設置法、総理府設置法改正)が成立し、現在の原子力行政の基礎ができあがった2)。当時は、資源小国でありかつ被爆国である日本は積極的に原子力の平和利用を推進していくべきであるという考え方が、広くコンセンサスとして成立していた。そして原子力エネルギーは「未来のエネルギー」であり、科学技術の進歩が人類の輝く未来を約束しているように考えられていた時代だったのである。人工衛星によって人類の宇宙飛行の夢が実現に一歩近づいたのとほぼ時を同じくして、57年8月27日、茨城県東海村に初めて「原子の火」が灯った。まさに「科学技術の輝く勝利」であり、原子力発電にとっては「バラ色の時代」であった3)。このような時代状況を背景として、60年代には日本各地で原発の新規立地が進んでいく。
 しかし、60年代後半頃からこの状況に変化が現れる。新規立地の計画が浮上した地域で受入れ拒否が相次いだのである(図表3)。この時期は公害が社会問題化し、大規模開発への疑問が投げかけられ始めたころであった。さらに70年代に入ると、原発の安全性に疑問を投げかける大きなトラブルが相次いだ。71年、アメリカでの緊急炉心冷却装置(ECCS)の実験結果が予想と異なったという情報が飛び込んできてからは、安全性に関しては十分実証済みといわれてきた原発技術に対する批判的意見が強くなってきた4)。中でも、74年9月に原子力船「むつ」が航海中に引き起こした放射能漏れ事故、79年4月のアメリカ・スリーマイル島原発事故などはマス・メディアで大きく取り上げられ、さらに80年代に入っても81年4月の日本原電敦賀原発放射能漏れ事故など、原子力開発の過程でのトラブルが頻繁に報道され続ける。そしてこの過程で、国民の間に原発への不安の意識(少なくとも原発の安全性に対する懐疑)が徐々に浸
透していったのであった5)。
 一方で、エネルギー源としての原子力の重要性は、70年代の2度のオイルショックの経験以降、さらに高まっていった。オイルショックの教訓から、通産相の諮問機関である総合エネルギー調査会は、75年8月「50年代エネルギー安定化政策一安定供給のための選択一」と題した答申を出し、従来までの「豊富・低廉・安定」というエネルギー政策における国としての政策理念のうち、安定性を最優先課題とすべきであるとした。これを受けて、通産・大蔵・農林・労働・経済企画などの閣僚を構成メンバーとする総合エネルギー対策閣僚会議は、75年12月、政策大綱「総合エネルギー政策の基本方向」を決定する。そしてここでは、準国産エネルギーとしての原子力6)の開発を推進することが、今後のエネルギー政策の中心の1つとして掲げられることになる7)。
 以上のように、原発を取り巻く環境は、70年代を境に大きく変化した。すなわち、原発の「バラ色」のイメージが崩れ、代わって「危険性」というマイナス面の認識が広がった。70年代に新たに受入れを決める自治体はなく、原発の新規立地は困難な情勢であった。他方で国家戦略における「石油代替エネルギー」としての原発の位置づけは一段と高まっていった。80年代の原発立地政策の置かれていた環境は、その実施の困難さと緊急性という両者の緊張関係によって語られよう8)。
 すなわち、日本の原発立地政策の特徴は次の2点に集約される。まず第1に、冒頭において指摘したように、日本の電力需要の伸びに対応すべく原発の建設が進められ、設備容量を着実に増やすとともに、総発電量に占める原子力の割合も増加してきた。しかしながら第2の特徴として、原発の「新規立地受入れ」は70年代に入ると突如として途切れており、原発の建設は、60年代以前に計画が決定していた地点において長いリードタイムの末に建設にこぎつけたり、すでに立地していた地点に増設を進めることによってまかなわれてきたのであった。
 本稿では以下、上記の2つの日本の原発立地政策の特徴を手がかりとして、原発を受入れる過程に焦点を当てながら、考察を進めていく。
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日本における原子力発電所立地受入れの政治過程 (1)はじめに  政治のはなし

T はじめに

 1963年10月26日、日本原子力研究所の動力試験炉JPDR(電気出力12,500キロワット)が運転を開始して以来、日本の原子力発電は着実に成長を遂げ、97年9月現在、運転中の商業用原子炉は52基、発電設備容量は4508.3万キロワットと、アメリカ、フランスに次いで世界第3位の設備容量を持つまでにいたった(図表1、2)。そこから生み出される電力は、電気事業用に発電される総発電量のほぼ3分の1に相当し1)、もはや電気なしでは済ますことのできない今日の日本社会において、我々は原発抜きにしては生活を語ることができないといっても過言ではあるまい。しかしその一方で、原発建設にあたっては地域共同体を二分しての深刻な社会紛争が引き起こされることは少なくなく、筆者の見るところいまだにこれへの有効な解決策が発見されているとは言い難い。本稿の目的の1つは、原発問題について筆者なりの整理を行うところにある。また、原発立地政策から原発問題を論じるならば、原発問題は国家のエネルギー問題として理解されることが多かった。しかし後述するように、この視角だけでは、政策過程における諸アクターの動きをきちんとした形で論じることができない。そこで本稿では、原発立地政策に関するアクターを複数のサブカテゴリーに分類したうえで、それぞれのアクターどうしの関係性によって形づくられるネットワークに焦点をあてて考察を進めていく。本稿は以上のような問題意識に立ち、日本の原発問題についての包括的描写を試みるものである。
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日本における原子力発電所立地受入れの政治過程 −関西電力大飯発電所増設をケースとして− もくじ  政治のはなし

日本における原子力発電所立地受入れの政治過程
−関西電力大飯発電所増設をケースとして−
(1998年)

目次
T はじめに
U 日本の原子力発電
1 日本の原子力開発の歴史と特徴
2 エネルギー政策としての原発立地政策研究
V 関西電力大飯原子力発電所増設をめぐる政治過程
1 電源開発手続きと財政制度
2 ケース
(1)増設前史
(2)関西電力大飯発電所3・4号機増設
(3)小括
IV 考察
1 「原発問題」への3つのアプローチ
(1)エネルギー政策としての原発問題
(2)イデオロギー領域としての原発問題
(3)地域振興政策としての原発問題
2 3つのアクター群と政策ネットワーク
V まとめ

『政策科学』5巻2号
http://www.ps.ritsumei.ac.jp/assoc/policy_science/
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諫早湾干拓事業と首相のリーダーシップ  政治のはなし

 教員になって2年目の、高校1年の現代社会の時間に、諫早湾干拓事業をテーマにして、それぞれのアクターの立場からこの問題にアプローチすると、どのような論点があって、どのような立場をとるか、グループ討論をしたことがある。
 あれから13年が経った。菅首相が堤防の開門調査を指示し、当然のように長崎県知事が反発している。マスコミ報道のとおりにリーダーシップを示したいのであれば、いかなる抵抗があろうとも開門調査をやり遂げる意思があるのだろうか。
 全員が納得する解決策は存在しない。だからこそ、こうして問題がこじれているのだ。普天間問題といい、大規模開発や迷惑施設をめぐるNIMBYポリティクスについて、あまりに無邪気すぎるように思う。
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ほとほと、あきれる  政治のはなし

 茨城県議会選挙で、定数65のうち、民主党が6議席しか獲得できずに「惨敗」した、と騒ぎになっている。
 よくよく聞けば、「民主6→6」はさておき、「自民45→33」「公明4→4」「共産2→1」「みんな1→2」「無所属6→13」という結果らしい。要するに、政権交代にかかわらず、現有勢力が維持されたわけである。
 この結果、小沢前幹事長の証人喚問や、菅首相の退陣を要求する声が強まるのだとか。
 政治部記者は、とりあえずこう書いておけば仕事をしたことになる。失言で辞任したどこぞの法務大臣と、大して変わらない。

 もっとも、菅政権がほめられたものではないことは百も承知で、ちょっとひどいと思ったのは、法案通過率が38%というとんでもなく低い数値を示したことである。
 同じねじれでも、福田政権ではどうだったのか。
 政権批判をするのであれば、この点だ。
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