タテ社会というよくできたシステム、実証編。  世の中のはなし

全柔連の一連の不祥事を見ると、自分の見立ては間違っていなかったな、と思う。
http://sun.ap.teacup.com/kodamac/1282.html

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誤審について  世の中のはなし

 日本シリーズ第5戦が、大誤審で台無しになってしまった。
 サッカーでは「マリーシア」といって、ずるさも競技の一部だといわんばかりに南米の選手がやっているが、あまり日本の野球では見たことがないので、余計に雰囲気がおかしくなってしまった。
 誤審は避けられないし、それもまた試合の一部なのだと思うが、それにしても後味の悪い誤審であった。

 このブログで「誤審」と検索すると、2件ヒットがあった。
 いずれも、うちのチームが誤審で涙を飲んだというものである。
 もっとも、うちが誤審で勝利したということもあっただろうし、それはこちらの記憶には残らないから、この数え方はフェアではないかもしれない。

 誤審といえば、忘れられない誤審がある。
 近畿私立高校ハンドボール大会の3位決定戦の笛を吹いたときのことだ。

 実力の拮抗する2校の対戦。予想通り、試合はスピーディーな展開での一進一退の攻防となった。
 後半残り1分を切り、1点差。選手と一緒に50分近くダッシュを続けてきたこちらはもう息が上がり、目の前がときどき真っ白になる感覚を覚える。もう限界をとっくに超えていた。時計をチラチラ見ながら、どうかこのまま終わってくれることだけを祈っていた。 
 攻撃がミスをしてターンオーバーから速攻となった。ディフェンスが戻りきれず、反則を犯す。無意識のうちに笛を吹き、ペナルティスローを与えていた(これは正しい判断)。スローが決まり、同点、そして試合終了。
 3人ずつのペナルティコンテストで決着をつけることとなった。
 それぞれ2人ずつ成功させて3人目。先攻の選手が外す。
 後攻の選手が位置に付き、スロー開始の笛を吹くと、そのままシュートが入った。それで試合終了かと、ほっとしたのだが・・・。
 ベンチから「入ってない!」の声が、体育館に鳴り響く。「ラインを踏んでた。しっかり見てたんや!」
 実はその瞬間、ラインには目が行かず(そこを確認するのがレフェリーの役目)、ボールの行方ばかりを追いかけていたので、それがどうだったかわからない。しかし、それについて判断する権限は審判である自分にしかなく、わからない以上、「正当なスローでゴールを認める」としか判定のしようがなかった。
 結局、試合はそのまま終了した。
 その監督の先生は大ベテランの先生で、まわりの先生から「謝りに行った方がいいよ」と言われ、大会委員長と審判長にもついてきてもらって、試合後、謝罪に向かった。
 「見てへんかったやろ、わし、それも見てたんやで」「この大会は全国につながらんからいいけど、これがつながる大会やったら、大変やで」「勉強しぃや」と、にこやかに声をかけてもらった。

 日本シリーズで誤審をした球審も、目の前に飛んできたボールをよけるのに気をとられ、バッターの方に目が行かなかったのかもしれない。そして状況から判断し、そして死球・危険球退場という判定をした。
 その判断を下す責任は球審にある。そして球審は判断を謝った。それもまた試合の一部なのだと思うが、やはりどこか後味が悪い。
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タテ社会というよくできたシステム  世の中のはなし

 タテ社会というのはどうも苦手なので、近づかないように生きてきた。
 外から観察して思うのは、タテ社会というのは見事なしくみだと思う。
 先輩が後輩に偉そうに振る舞い、後輩が先輩の立場になると、手のひらを返したように先輩がしてきたように立ち振る舞う。
 任侠の世界もそうだと聞く。年功序列の職場もそうだ。年金のしくみだってそうではないか。
 若いころに、年長者からの理不尽な要求に耐えて、将来に貸しを作り、年をとってから若い世代からその分を回収するしくみなのだから、当然、自分の代で回収できなくなることがいちばん困る。だから組織内部から改革のインセンティブが働かないのは、当然のことだ。また、そういう振る舞いをしない人の存在は、こういう組織の内部では厄介者になるし、上の世代だけではなく、自分の将来の回収を妨げる存在として、実は若い世代からも脅威に感じられているのかもしれない。
 日本社会の隅々にまで浸透したこのシステム、利害でがっちり固まっているだけに、そう簡単に変わることはあるまい。
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デフレの正体は、やはり・・・。  世の中のはなし

 昨日の毎日新聞に載っていた、潮田道夫氏のコラムは、なかなか興味深い(「水説 金融と涙の水たまり」)。
http://mainichi.jp/select/opinion/ushioda/news/20120118ddm003070155000c.html

 日銀の白川総裁が、今月10日にロンドン大学で講演して、欧米諸国もまた、日本のたどったThe Long and Winding Roadをたどることになるかもしれない、という話をしたらしい。
 潮田氏はさらりと流しているが、ここで白川総裁が、日本の「失われた20年」を、前半ではバブル崩壊による借金返済に追われたためであったが、後半の低成長の主因は、史上先例のない急激な高齢化と人口減少のためである、という見解を示したことは、とても重要なことではないのだろうか。
 まさに、藻谷浩介氏の『デフレの正体』の説明そのものではないか。
 白川総裁によれば、2000年代の日本経済は、人口1人あたりで見れば、GDPの伸び率は他の先進国と遜色なく、生産年齢人口で見ればもっとも高かったという。それでもGDPは伸びなかった。
 とすると、日本経済は、ちょっとやそっとの景気刺激策では、総体としての経済成長はもはや望めない、ということでもある。大変な話である。
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オウムを知らない子どもたち。バブルを知らない若者たち。  世の中のはなし

 大晦日の午後11時50分、丸の内署にオウム真理教の特別手配犯が出頭した。今の中学生が生まれたのは、1996年。彼らはオウム事件を知らない。
 店に流れていた有線放送から、懐かしのユーロポップスが流れていて、Pet Shop Boysが「Go West〜〜♪」と歌っていた。あぁ、ベルリンの壁が壊れて、「西へようこそ」って看板が出ていたことを思い出した。今年の新成人が生まれたのは、このベルリンの壁が壊れた翌年のことになるらしい。その年末をピークにバブルがはじけ、日本は長い長い停滞の時代に突入する。
 そんな折、朝日新聞の社説への痛烈な批判を目にした。納得である。

「尾崎豊の再評価が不要な理由」(冷泉彰彦)
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/01/post-385.php

*朝日新聞の社説(2012年1月9日)
http://www.asahi.com/paper/editorial20120109.html
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イベントとしてのお正月は、どうせなら2月に。  世の中のはなし

 今年の紅白では、いつもより「ふるさと」が強調されることが多かったように思う。ただし、日本国民のうち、いったいどれだけの人が、「うさぎ追いしかの山」を心の中に持っているのだろうか。首都圏に人口の4分の1が集まり、大都市郊外のニュータウンに生まれ育った世代には、かの山もかの川もなければ、三丁目の夕日もまたない。
 お正月には、近所の神社に初詣して(もっとも初詣という習俗が鉄道会社の営業戦略から始まったのだから、それもまたコマーシャリズムといえばそれまでだが)親戚一同集まっておせちを食べる、というのが「古き良きお正月」イメージだとすれば、それは地縁と血縁を確認する時間だといえよう。だとすれば、地縁もなく血縁も薄くなった現代社会にあって、お正月もまた、生活の中から季節感がなくなっていく中で、無理やり季節を進めて新たな購買意欲を刺激する、イベントのひとつだと考えたらいいのだろうか。
 親戚一同集まるわけでもなく、凧揚げできる広場もなく、テレビもどこも同じようなものなので、それならば新春初売りにでも、となるのか、元旦から店を開けるところがやたらと増えた。年末年始もあったものではない。お正月に休める人の数がどんどん減っていくということは、ますますお正月のお正月たる所以がなくなっていくということにならないか。
 それならば、この時期のイベントはクリスマスに任せて、日本のお正月は、旧正月にするか節分にするかして、しっかりとやった方がいいと思う。

 さて、世の中は今日が仕事始めということだが、もう1日余分に休ませてもらい、四条に買い物に出た。古いお店では、玄関先に家紋入りの幕が張られ、門松にしめ飾りが出されていた。気持ちも引き締まる。
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 旧松坂屋京都仕入店の前を通ると、とうとうホテルとして改築することになったと、看板がかけられていた。地上5階、地下1階というから、この築100年の商家は取り壊すということか。もったいないなぁ・・・。
http://www.matsuzakaya.co.jp/corporate/history/edo/04.shtml
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Good Loser  世の中のはなし

12月29日、まさかの劇的延長勝利で京都サンガの天皇杯決勝進出が決まったので、急いでネットオークションでチケットを手に入れて、国立に行って参りました。
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「お前らJ2、おれたちJ1」と煽る東京サポ。相変わらず口が悪い
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負けておりません!
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いよいよです。
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キックオフ!
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13分、先制!!(しかし2分後、コーナーキックでニアポストをガラ空きにするというミスで失点し、すぐに同点に。)
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1ー3でハーフタイム。なんぼなんでもディフェンスがザルすぎる・・・。パーサくんとコトノちゃんの相手をしているのは、ドロンパというタヌキらしい。
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後半開始、なんとか一矢を!
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いけ〜〜!!
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しかし、今野のディフェンスの前にはまったく歯が立ちません。
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それでも、最後まで攻める!
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2ー4で終了。しかし、準優勝は見事でした。まだACLに出るには早すぎる。
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表彰式。東京の選手が花道をつくり、審判団と京都の選手を迎えていました。
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よくやった〜〜
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続いて東京の番。
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おめでと〜〜(今野と大熊監督抜きで、J1とACLは大丈夫?)
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すると、京都の選手が東京のサポに向かって・・・!(これには正直、感動しました)
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よく頑張った!!
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東京の選手も、お返しに。とてもすがすがしい気持ちで、スタジアムを後にできました。(でも、やっぱり悔しい・・・。)
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 ほんとうに被災者と出くわしたとき、「がんばろう」「ひとつになろう」なんて言えない。


 おもしろい論考を読んだので、メモ。
 湯浅誠「くらしの明日 興味深い新市長のあいさつ」(2011年12月16日毎日新聞)
http://plaza.rakuten.co.jp/shchan3/diary/201112170000/
http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20111217/p2


 オフレコ会見の内容を暴露した琉球新報の記者を批判する声が、マスコミ内部から上がっているそうだが、佐藤優氏によれば、そもそも「これはオフレコだから」という発言は、あえて伝わることを念頭に置いて、観測気球として利用したり、世論形成に利用したりと、本来はそういうものであったそうで、「オフレコ」と文字通りにとらえて何でもアリの場にしてしまったというのは、官僚も記者もどちらも力がなくなったということになるのだろうか。


 自民党政権とは、右肩上がりの時代に拡大するパイを分配するためのものだった。
 今や、縮小するパイをどう再分配するかが政治の役割であり、民主党の使命はそこにあったはずだ。それが、自民党以上に既得権に絡み取られていることが明らかとなった今、そりゃ、政党不信にもなる。
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なみはやドームに行ってまいりました。  世の中のはなし

なみはやドームに行ってきました。
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ディズニーか、劇団四季か、というくらいの肖像権管理。いちおうアマチュアスポーツの大会なんですけど?
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というわけで・・・

(ノ゚ο゚)ノ オオオオォォォォォォ-
 (*'▽'*)わぁ♪
  ♪⌒ヽ(*゚O゚)ノ スゴイッ!!!
  °゚°。。ヾ( ~▽~)ツ ワーイ♪

結果。
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今年もいろいろ行きました。

こんなところとか、
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こんなところとか、
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こんなところとか、
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こんなところも。
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大部屋における机の使い方の作法  世の中のはなし

 今日は伏見港公園体育館で合同練習。近くて便利。
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 金正日総書記が「亡くなった」という言い方を、拉致被害者家族の前で口にしたテレビ司会者氏がいた。思わず口をついて出たのだろう。死者に鞭打つべきではないという日本的美徳なのか、あるいはまったく何も考えていなかったか。
 「ビンラディンが亡くなった」「フセインが亡くなった」「カダフィが亡くなった」とは言わなかったような気がするのだけど。

 ところで。
 研究室でプロジェクトのミーティングをしたときに気づいたのは、他の部屋でやったときもそうなのだが、「このイスは○○さんのだから座らないで」「その机はさわらないで」という、共同研究室であってもあくまで「個人研究スペース」なのであって「大部屋」ではない、ということだ。
 自分がいい加減なだけかもしれないが、いつも学校の職員室で、空いている机で勝手に仕事したり、話をするときに席を立っている人のイスを借りて座ったり、ちょっと採点用の赤ペンを拝借したりすることがあるので、なかなかこの感覚は新鮮であった。
 教科ごとの職員室を採用している学校の中には、なかなか教員集団としての連帯意識が生まれにくい面がある、という話を聞いたことがある。同僚意識を高めるというのは、「大職員室」の効用のひとつだといわれている。
 教師の仕事が一見個人戦のようでも、最後は団体戦であるのに対し、研究者の世界は、最後はあくまで孤独な戦い。職員室・研究室のつくりにも、そのことが表現されているのである。
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将軍様の訃報と鼓腹撃壌  世の中のはなし

太陽ヶ丘体育館を貸し切り!!
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夕方から授業を終えた学校が合流して、大会前の練習試合をしてきました。

 太陽ヶ丘に向かう途中、昼食に立ち寄ったラーメン屋のテレビで、朝鮮中央テレビの正午の緊急生放送を見る。金正日総書記、死去。昨日の日韓首脳会談がケンカ別れに終わったのを待っての発表か?
 隣のおっちゃんたちの話。
「どうなるんかね」
「えらい変わるんやろなぁ」
「日本なんか、毎年総理が変わっても、ぜんぜん変わらんのになぁ」
 比較するのもおかしい話だが、どっちを選ぶかと言われると、迷うことなく、トップが変わっても大して変化の期待できない国の方を選ぶ。ゆるやかに滝壺に落ちようとしているらしいのに、その巨艦の舵が効かないことは、それはそれで問題だと思うけれども。
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皆既月食  世の中のはなし

 赤い月。
 月を食べたのは、ウサギか龍か。
 月食があることを知らずにこれを突然見たら、何事かと思うことだろう。

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 これを見て地球が丸いと考えた、古代ギリシアや古代エジプトの人たちは、やはりすごかったと思う。それがどうしてその後、知的な暗黒時代に突入してしまったのか?
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賞味期限切れ寸前のメモ:『3.11後の放射能 「安全」 報道を読み解く』  世の中のはなし

 もう1か月以上前のことになるが、連続講座第2回の影浦先生のレクチャーに関して、ブログにアップしようとしていたメモがあるのだが、まだまとめきれていない。
 アナロジーについて感じたことは速報的に書いてはみたが(http://sun.ap.teacup.com/applet/kodamac/20111029/archive)、それ以外についても、そろそろ賞味期限も過ぎてしまうので、未完成ながら投稿しておきたい。

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 小学校の校長先生が、給食に毎日ウィスキーを混ぜていた。
 専門家は「私は5歳のころから酒を飲んでいるが、なんともない」「少量の酒はむしろ体にいい」というコメントを出して、校長を擁護している。
 そんな「科学的論争」をしているのではない、校長のその行為が不当・不法であることが問題なのだ。
 低線量被ばくについての専門家も同じこと。

 不安に感じることを問題視する専門家は、問題をすり替えている。これまでの基準を超えた放射線量に対して不安に感じるのは当然で、立証責任は東電や政府の側にある。子どもの健康を第一に考える親に対して「ヒステリー」を言うのであれば、「正常」な親とはいったいどんな親なのか?

 専門家は「知っている人」。知らないことは「想定外」として考えない。自分たちの世界の中で、現実から乖離した仮定によって、議論を進める。
 科学者は「知らない人」。誰も知らないことに挑み続ける。予想した範囲を逸脱して、事実を目の前にして考えることができるか?

 以上がメモ。
 でも、考えられるようになったらしんどいだろうな。誰でもが引き受けられるわけでもなく、自由から逃走したくなるだろうな。

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 その1週間ほど前(10月21日)、鷲田清一先生の講演を拝聴したばかりだったので、「専門家」の抱えた問題について整理できるかな、と思ってはいた。以下はそのメモである。

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鷲田清一先生のお話「わからないことの大切さ」(本校創立記念講演)

・知恵と知識の違いについて
・「生活の中で生きる知識」「どうよく暮らしていくか」=「知恵」
・原発とはトランス・サイエンスの領域。個別の先端科学だけでは担えない事業。この複合的な事業そのものの専門家はいない。そして誰も責任をとらない体制(「それは私の専門ではないから・・・」)が出来上がってしまった。
・知らない間に、この国は、知識はあるけれど知恵はない国になってしまった。
・先端科学の与える影響力の大きさを考えると、今ほど知恵が必要とされる時代はない。
・知恵はどういうときに働くのか?
・問題と解答・解決は必ずしも1対1で対応しない。2つ以上あったり、論理を貫徹できない解があったり、答えがない問いがあったりする。
・そんなときに必要とされるのが「わからないものに、わからないまま正確に判断する力」「わからないままに、これは大事!、と直感的につかんでいく力」。これが政治的感覚。これを研ぎ澄ましておかなければならない。
・ほんとうの学びとは、わからないという息苦しさに耐え、ひたすらに考え続けられる知性のタフさを身につけること。
・本当の知性とは? ものごとの価値の遠近法をしっかり持っている人。
 1)絶対になくしてはいけないもの
 2)あったらいいもの
 3)なくてもいいもの
 4)絶対にあってはならないもの
この4つのカテゴリーに、わからないものを即座に区分けできるか?
・それは年とともに変わっていく。いろんな経験を積み、人と交わり、これを正確なものにしていく。絶えず組み替えていく。それが「学び続ける」ということ。

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 なお、専門性あるいは学問領域の抱えた問題については、昔、メモをブログに載せたことがある。
http://sun.ap.teacup.com/kodamac/511.html

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 ところで、「専門」と「教養」の関係について、内田樹氏が、孔子の「六芸」や旧制高校を例に挙げて説明していたのが眼からウロコだったので、長くなるが引用する。

 専門教育というのは、「内輪のパーティ」のことです。
 そこは「専門用語で話が通じる」場所です。あるいは「通じることになっている」場所です。そこでは、「それはどういう意味ですか?」という術語の定義にかかわる質問をしてはいけません。あるいは「この学問領域は何のために存在するのですか?」とか「あの人はなんで偉そうにしているんですか?」という質問 は許されません。全員が「その場のルール」を熟知している(ことになっている)というのが専門教育の場です。
 (中略)
 ところが「内輪のパーティ」だけでは専門領域は成り立ちません。ある専門領域が有用であるとされるのは、別の分野の専門家とコラボレーションすることによってのみだからです。(中略)・・・他の専門家とコラボレートできること。それが専門家の定義です。他の専門家とコラボレートできるためには、自分がどのような領域の専門家であって、それが他の領域とのコラボレーションを通じて、どのような有用性を発揮するのかを非専門家に理解させられなければいけません。
 (内田樹『街場の教育論』90-92頁)

 
 そのために必要となるのが「教養教育」だ、と話は続いていく。だから専門教育も教養教育も両方ないと困るというのだ。

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 最後に。
 このレクチャーの中で、「なぜメディアリテラシーについて普段やっていない自分が、この問題について発言しなければならないのか?(なぜ、メディアリテラシーの専門家が、この問題に対して沈黙を守っているのか?)」という問題提起があった。
 まさに「専門家」だからこそ、「想定外」のことは考えられず発言もできなかったのかも。
 もっとも、「メディアリテラシー教育が、学習指導要領でも求められている」とかいう、お上の権威付けとは何かを疑いもしないメディアリテラシー教育論があるのも、事実。


 なお、主催者によるブログは、こんな感じ。
http://d.hatena.ne.jp/to-yurikon/20111120/1321792034(中村先生)
http://blog.goo.ne.jp/masa-sem/d/20111120(足立先生)
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さちいち、復活!  世の中のはなし

 勤続10年でいただいた金一封を元手に、高校生に組み立ててもらった「さちいち」でしたが、長らくシステムエラーによりほこりをかぶっており、不憫でなりませんでした。
 このたびLinux OSのUbuntu11.10をインストールして再稼働いたしました。
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教室のタカラジェンヌたち  世の中のはなし

 阪急電車の車内吊り広告に、今度のタカラヅカの公演案内があって、ぼんやり眺めてみると、「ひかる」とか「杏」とか「理寿」とか「瑠音」とか、どこかの小学校の女子の名簿と大して変わらないように思えてきた。
 日本中の親が、自分の子どもはタカラヅカの女優さん並みだと思っているということだろうか。一億総芸能人時代?

 昨日だか、愛子内親王さまが高熱で東大病院に入院されました、というニュースがあった。そういえば、お母さんは雅子さま、おばさんは清子さん、いとこは、眞子さまに佳子さま、そのお母さんは紀子さま・・・。
 教室のタカラジェンヌたちが、皇族と結婚したら、「しおんさま」とか「りずさま」とか「てぃあらさま」とか呼ぶのだろうか?

・・・なんて、あるロック歌手が生まれた双子の子どもに「らいおん」「しょーん」と名づけたとかいうYahoo!ニュースを見て、思う。
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