越後国魚沼郡中山村 口留番所高札 元禄四年
三国街道 からの抜け道 中山村にあった ミニ関所
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中山地域は江戸時代には、越後国魚沼郡中山村でした。
江戸と越後を結ぶ
関東往還の三国街道に沿う村です。
いま和南津橋の前から見下ろせる魚野川の舟渡し場は、
三国往還の最大の渡船場として難場でした。魚野川出水のつど、川止めになり、多くの往来の人々が難渋していたことになります。
またこの街道は、参勤交替の大名の往還街道であったことで、七万石の大名長岡藩お殿さまお通りには二百人を越す行列が、ここの舟渡しで魚野川を越す難渋の渡りが、口伝に語られてきました。
明治と時代が替わると、渡船場には橋が架かります。今日の
国道十七号線和南津橋はそれを引継いでいるのです。
冬の魚野川 和南津橋から旧三国街道 舟渡し場跡を臨む
中山村は、古志郡二十村郷(
山古志)に隣接して、三国街道からの分岐道が通じていました。
魚沼郡の中山村は高田藩・幕府天領・会津藩などに属して推移し、山古志二十村は長岡藩領で支配違いでした。三国街道からの分岐道で、他藩領に抜ける往来の人々と荷物を取締まる
口留番所が、中山村におかれていたのです。
取締まりの対象は女、手負いの人、鶴や白鳥、蝋もの、米など、そして怪しげな人などの往来の制止だったわけです。この高札は中山村の口留番所の取締まりを示した元禄四年(1694年)の定めです。
今日でもこの中山の地域は交通の要衝であって、国道十七号、関越自動車道、鉄道上越線、上越新幹線とする
近代交通の基幹が交錯する立地となっています。

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