第122代目の天皇。
本名は睦仁親王。嘉永5(1852)年9月22日(現在の11月3日)、中山忠能邸に誕生しました。
万延元(1860)年、9歳で皇嗣に立ちました。元治元(1864)年7月、尊王攘夷(そんのうじょうい)を唱える長州藩による在京幕府勢力打破の際、御所周辺が戦火に巻き込まれた事もあって、宮中でひどく衝撃を受ける([禁門の変])。
この時世、佐幕か倒幕かで激しい闘争が生じていた事もあって、父・孝明天皇もその苦心からか慶応2(1866)年に崩御し、代わって翌3年1月9日に新天皇として立つこととなりました。
慶応3(1867)年10月14日、15代将軍徳川慶喜から大政奉還(たいせいほうかん)を受け、12月9日には王政復古の大号令が下されました。
さらに慶応4年1月に元服、3月には薩長官軍と共に五箇条の御誓文を発して新しい政治方針を明示し9月8日をもって「明治」と改元、一世一元の制を打ち出す。
この年の12月、朝廷左大臣・一条忠香の娘・美子(昭憲皇太后)と結婚しました。
明治2(1869)年3月、江戸(東京)へ遷都、江戸城を皇居としました。
維新を成した士族たちに囲まれて過ごし、日常では熊本藩士・元田永孚を学問の師として教育を受けています。
また、徳川家から天皇家への転換期という背景もあって、地方行幸にも頻繁に足を運びました。
その回数は実に96回にも及ぶ。6(1873)年4月、習志野に野営し、近衛兵の演習に参加。
この時期から顕在化する士族反乱(1873〜78)にともない、明治10年、好意を寄せていた維新の立役者・西郷隆盛の城山での最期(「西南戦争」)を聞き、周囲に遺憾の意を漏らした逸話は有名です(このため西郷は賊軍扱いされず、のちに天皇の意向から正三位を贈られている)。
これを経て半世紀近い治世、アジアで初の憲法([大日本帝国憲法])を作り、同22年に「皇室典範」、同23年に「教育勅語」を発布して立憲君主制を確立。
広く海外にも目を向け、同27(1894)年の日清,37(1904)年の日露戦争に勝利を得て、日本国を世界の大国へと導く原動力となりました。
明治45(1912)年7月29日午後10時43分に崩御(公式発表では30日午前零時43分)。伏見桃山陵(京都市伏見区桃山町古城山)に葬られ、大正元年8月27日「明治天皇」と追号されました。
昭和2(1927)年、政府は誕生日の11月3日を明治節と定め、戦後は「文化の日」となって現在に至っています。
神格・・・・・和歌の神、東京の守護神
主要神社・・・明治神宮など


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