聖徳太子が冠位十二階や十七条憲法を定めたことは教科書で学びますが、その後太子が一族もろとも蘇我氏によって滅ぼされたことはあまり知られていません。彼は結局蘇我氏に利用され捨てられたわけです。
余談ですが、太子の人物像はあいまいで、実在しなかったという説も立てる人がいるほどですが、身長百八十センチの巨人で目が青く、赤茶髪、景教宣教師との混血であったという説もあります。父は用明天皇、母は蘇我馬子の妹(蘇我稲目の娘)で、この稲目の父は高麗(こま)で帰化人(ペルシャのサカ族)です。
仏教と聖徳太子を利用し朝廷を操ろうとした蘇我馬子は、物部守屋の一族を滅ぼし、崇峻天皇さえも暗殺し、初の女性天皇・推古天皇を擁立し、仏教専制を行ないました。
やがて蘇我氏は太子を退け毒殺します。その後、蘇我入鹿は太子の子・山背大兄王とその一族を滅ぼしました。現代では太子は仏教の大功労者と言われていますが、何故一族皆殺しにあってしまったのでしょうか。それは、真実は太子は仏教徒などではなく、太子のブレーンの秦河勝とともに原始キリスト教徒だったからです。
太子が作ったとされる「十七条憲法」についても、仏教国政に都合よく書き換えられているようです。
太子の信奉する原始キリスト教と蘇我氏の信奉する仏教とでは全く異なった宗教・政治思想でした。
蘇我氏は太子の財宝に目をつけ、彼らはこれらの黄金を奪い、用済みになったところで太子一族を闇に葬ったわけです。
大聖勝軍寺(通称太子堂)には、聖徳太子が毒殺される場面を描いた絵巻が残っていたと言います。
「聖徳太子」の名前の由来については様々な説がありますが、おそらく、「聖」はキリスト教では「セント・ヨハネ」など名前の上に聖なる者と言う意味でつけたものであり、蘇我氏が毒殺したことから、死後怨霊となることを避けるために、「徳」と言う字をつけたものと思われます。
「怨霊」を鎮めるために法隆寺を建て、以後仏教の功労者として祭り上げたわけです。
一説に聖徳太子は自殺をしたとも言われていますが、自殺した場合は「徳」の字は付きません。
歴代、不幸な死に方をした天皇または太子は、孝徳、称徳、文徳、崇徳、安徳、順徳などで「徳」の字が付けられています。
ちなみに現皇太子殿下は、あろうことか御誕生の時から「徳仁」と命名され、「徳」の字を当てられ、あたかも不幸になることを呪うかのような暗示をかけられています。
これは、戦後の極東植民地政策の一環として、日本を霊的に潰すために天皇家に仕掛けられたワナであり、実際、雅子妃殿下は全く皇太子妃の存在意義の無いような女性であり、彼女の行状を見る限り、皇太子は不幸としか言いようがありません。
このまま天皇家の陰陽のバランスが崩れた状態が続けば、天皇制は廃止に追い込まれ、日本および世界が崩壊することは避けられないでしょう。
厩戸御子(うまやどのみこ)は「聖徳太子」と言う名前を付けられ、あたかも彼が仏教を広め、様々な素晴らしい業績を残したことにして、彼を輝かせることで蘇我一族の陰謀、闇を世間の目から遠ざけたのでした。
では、実際には蘇我氏が広めた仏教とは何だったのでしょうか。
仏教の教祖シャカは紀元前六世紀ごろ、インドにあった釈迦国の王子として生まれ、二十九歳のとき出家し、三十五歳で悟りを得て教えを広めたと言われています。彼は六年間にわたって苦行を中心とする宗教的修行に専念し、解決を模索しましたが、ついには苦行の無意味さに気付き、極端な苦行に偏らず、かつ極端な快楽にも溺れない「中道」を歩むということを悟った人でした。以後、彼は自分の悟りに基づいて教えを説き始め、人々からブッダ(サンスクリット語で「真理に目覚めた人」)と呼ばれ、漢字で「仏陀」とあて、その略が「仏」で、一人の人間である宗教的聖者を指す一般語となりました。
この仏陀の教えをまとめたものが「法華経」とされており、日本仏教では宗派の別なく学ばれています。大乗仏教の経典は数多くあり、どれも釈迦の言説という形をとってはいますが、釈迦の死後六百年を経てまとめられたもので、後世の仏教徒の作と言えるでしょう。法華経の内容は釈迦が悟った「中道」という精神からは逸脱して、およそ似ても似つかない内容に変容しています。
釈迦が現代に生きていれば自分の名を語った宗教詐欺だと訴えるかもしれません。
釈迦の思想は次の四つが主なものでした。
「苦」(人生は苦である)
「無常」(すべてのものは移り変わる)
「無我」(世界のすべての存在や現象には、捉えられるべき実体は無い。)
「涅槃(ねはん)」(すべての執着を断てば苦悩に満ちた輪廻の世界の生まれ変わりから解放され、生存から脱することが出来る)
もともと釈迦の教えを体系的にまとめたものは無く、イエスの死後インドに宣教したイエスの十二使徒の一人、トマスの原始キリスト教に対抗する形で法華経は一世紀後半以降に記されます。書かれている内容は、キリスト教の聖書の思想の「焼き直し」とも言えるほど似ていると言われています。
法華経は大乗仏教の経典ですが、この大乗仏教には「大日如来」や「阿弥陀仏」というような神的存在者の思想、「浄土」の思想、「罪」の思想、「弥勒菩薩」の思想などもともと原始仏教には無かった思想が数多く混入しています。これらの思想はキリスト教の思想にとてもよく似ています。
阿弥陀仏を信じ、その名を唱えれば、凡夫・悪人でも阿弥陀仏の願力によって極楽浄土(キリスト教で言えば天国)に往生できるという思想は、「主の御名を呼び求める者は誰でも救われる」というキリスト教の教えと瓜二つです。
日本での弥勒は、インドのマイトレーヤ、中国のミレフであり、ヘブル語のメシヤ、ギリシャ語のキリストだと言う事です。
この大乗仏教の成立に影響を与えた「キリスト教」はカトリックやプロテスタントといった西洋のキリスト教ではなく、インド方面に早くから入っていた原始キリスト教から変質した「景教(けいきょう)」と呼ばれる古代東方キリスト教です。これは「光明の教え」と言う意味です。
ある仏教学者は「阿弥陀仏の教義はインドで作られたものではない。中国仏教はカシミールやネパールから伝来したもので、阿弥陀仏は当時この地方に影響を与えたペルシャのゾロアスター教とキリスト教に起因する。」と述べています。
この「景教」はまずアッシリヤやペルシャなどの地域で栄え、五世紀末には中央アジアから中国に至るほぼ全域に広がりました。
イスラム教の教祖であるマホメットも、西暦五百七十年ごろ、マホメットが十四歳の時、景教の修道僧と出会い、彼の話を聞いて強い宗教心に目覚め、後にイスラム教を興しています。
京都の広隆寺は秦河勝が聖徳太子の命で建立したとなっていますが、河勝も太子も原始キリスト教徒であったわけですから、寺などは建てていないはずです。
これはおそらく蘇我氏が建てたものを後に秦氏が建てたことにしたものと思われます。
その広隆寺にある国宝の弥勒菩薩像ですが、これは仏教美術として私達は学んだわけですが、実はこれは景教の象徴だったのです。
景教とは象徴(シンボル)を好んで使ったことで知られていますが、彼らはキリスト教の教義である「神の三位一体(さんみいったい)」(父なる神・キリスト・精霊の一体性)を信じており、この右手の形は、その三角形とその伸ばした三本の指とで、彼らの三位一体信仰を表す二重の象徴であったと研究家は述べています。
また、「ミロク」とは、仏教における未来の救い主、来るべきメシヤであり、キリスト教で言えば「再臨のキリスト」と言えます。
現在の日本に仏教的な行事、習慣として定着しているものは、実はほとんどが景教(キリスト教を基にした宗教)であり、釈迦の教えはどこにも無い、というのが事実です。
また、現在の仏教は神道からの借り物の様式を取り入れて、あたかももともと仏教的様式のようにしてしまい、日本で古くからあった神道の様式を奪った形になっています。
例えば、神式と仏式のお墓の違いなど、両者はほとんど似ており、大きな違いはありませんが、これは祖先のお祭りを行なうという日本の風俗習慣に基づくものであり、元来の仏教の教えには無かったものです。
日本における仏教とは、釈迦を奉じる一神教ではなく、景教の焼き直しであり、神道も混ぜ込んだ、「釈迦」に名を借りた、雑多な要素を取り込んだ宗教と言えるでしょう。
(続く)

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