2013/12/11
戦後、芸術の分野に於いても、
相当の贋物が百花繚乱の如き様相を呈しています。
茲で云う贋物とは、
所謂、レプリカを指すものではありません。
大衆迎合に陥って、精神性の欠片も無い、
単なる「作品」に過ぎない芸術を
贋物と称したいと思います。
絵画、音楽、彫刻、文学など、
あらゆる点に於いて、贋物が跋扈していると思いますが、
今回は日本画について、少々感じるままに書いてみます。
少なくとも戦前までは、西洋画の手法を取り入れながらも
日本画らしい精神性を感じることの出来る日本画が数多く存在したと思います。
ところが昨今の日本画は、作者の精神性など何一つ感じる事が出来ない、
また何を書いているのかタイトルを見なければ理解出来ない様な日本画が氾濫しています。
何度か院展に足を運びましたが、
凡そ日本画だとは分からない様な
単なる写実的な絵だけが展示されていました。
人物画にしても、
畳一畳くらいの大きさに
でかでかと人物が描かれているだけでほとんど背景は無く、
一体この絵から何を感じ取れば良いのか全く分かりません。
またマンホール、ニューヨークのショーウィンドウなど
凡そ日本画の題材に相応しいとは思えない様なものまでありますが、
どれもこれも、メロンの皮を描いているかのように
細かく描写されてはいますが、
単に「描いてある」だけで、何も訴えかける精神性が感じられません。
或いは、素人受けするような単に「和風の綺麗な絵」など、
「日本画」ではなく「和風の絵」も散見されます。
これらの「日本画と称する絵」は
一体何を以て日本画と言っているのか、
全く理解不能な絵ばかりです。
山種美術館に所蔵されている日本画の巨匠と言われる画家の絵は
どれをとっても日本人の心に深く感動を与えてくれます。
山種美術館のHPによると、
「日本画」の呼称は明治以降に付けられたそうです。
詳細は以下のアドレスをご覧下さい。
http://www.yamatane-museum.jp/nihonga/
明治の近代化政策によって、
それまでの日本に於ける「絵」の概念は大きく変化を迫られたことでしょう。
明治以前の日本に於ける「絵」は
西洋の「絵」の様に額縁に入れて切り取られたものではなく、
襖や屏風、或いは茶室の掛け軸のように、
部屋のしつらいを際立たせる為に描かれていました。
明治以降は西洋画の要素や手法を取り入れつつ
明治以前の伝統的手法も遺しながら、
日本人らしく醇化させて
新しい「日本画」が次々と生み出されて行きました。
ところが、大東亜戦争終結後は
GHQの占領政策によって
あらゆるものが戦前と切り離され、
日本の伝統文化やそこに根差していた精神性も全て
「悪」として打ち捨てられてしまいました。
その結果、芸術の分野に於いても
日本の伝統を全く引き継ぐことの無い、
単なる日本画の画材を用いた
「和風の絵」つまり贋物が氾濫する事になったと言えます。
これらの贋物が氾濫する根底には
本物を見極める事が出来る人物がいなくなり、
単なる「商材」としてしか扱われなくなった事で
大衆受けする、見た目に綺麗な贋物を
只管描き続ける画家しかいなくなったとも言えます。
その様な商売画家によって描かれる絵は、
歴史的な出来事を描写している絵であっても、
全く時代考証が為されておらず、
こんな時代にこんなものが有る筈が無い、
と云う事でも平気で絵にしてしまいます。
それを見た鑑賞者も、結局は素人ですから
時代考証など全く念頭には無く
「自分が気に入れば良い」と云うだけで判断してしまいます。
つまり、画家と鑑賞者の両方が堕落している為に
どちらも成長を促す精神性を失っていると云う事なのです。
画家に限らず、芸術と云うものは、
鑑賞者の眼力如何によって、
少なからず芸術家に影響を及ぼすものであろうと考えますが、
お互いが「金」のことしか考えていない。
つまり画家は売れてなんぼ、
鑑賞者は買った後、どれだけ価値が出るか、
と云った具合です。
話は変わりますが、
以前、東大名誉教授で小堀鞆音の孫にあたられる
文学者の小堀桂一郎氏が横山大観の屈原について語られた事です。
大観の屈原にはその手に蘭が描かれています。
ところが屈原が蘭を持っていたという事実は無く、
これは大観がこの絵を描くにあたって加えた物とされています。
只、「蘭」は屈原自身が『楚辞』の中で
高潔な君子の誓えとして詠み、
以来蘭は屈原の高潔な気性を表わす象徴物と
みなされるようになったと言われていたことから
大観が屈原の手に蘭を持たせたのだと考えられます。
しかしながら、事実には無い事を絵にしてしまった事と、
当時の支那には蘭は存在していない事から
持っている筈の無い蘭を持たせたことが
屈原に関して言えば、時代考証の観点から考えて、
このようなあり得ない事を表現する事が良い事なのか、悪い事なのかは
今後の研究によって評価されることだと思われるとのことでした。
似たような事で、よく竹取物語を題材にした日本画が描かれることがありますが、
その主人公であるかぐや姫が著(つ)けている装束が
時代考証的に正しくは、奈良時代の物語ですから唐風装束であり、
五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも・十二単)であるはずはありません。
しかしながら近年、時代考証を疎かにする傾向が強まり
かぐや姫と言えば五衣唐衣裳を当たり前のように描いています。
これは大観の屈原とは異なり
全く以て、贋物以外の何ものでもありません。
屈原は蘭を持つことで、
屈原の高貴さと心と云う内面を表現し
且つ、その絵を引き立てているわけですが
かぐや姫の五衣唐衣裳は単にきらびやかで親しみがあると云った
安易な発想で描かれているに過ぎません。
五衣唐衣裳が著けられるようになったのは
平安に入ってからの事ですから
その頃に存在しよう筈も無い装束であり、
斯様な装束をかぐや姫に著けると云う事は
韓流で染色技術の無い朝鮮の装束にカラフルな色を付けて、
あたかもその当時から染色技術があったかの如き
歴史の歪曲・捏造が為されていると言っても過言ではありません。
また、小堀鞆音は厳島神社所蔵の国宝「紺絲威鎧」「小桜韋黄返威鎧」の
修理復元の際には修理監督となり、
更に「小桜韋黄返威鎧」の模作を3年がかりで制作しています。
そこまでして、細部に亘って模索する事により
よりリアルな武者絵を描こうと本物を追求しました。
つまり、写真や目で見ただけでは分からない
本物の質感や空気感を自分なりに体得して作品に活かしました。
けれども贋物を描く者は、そういった追及もせずに
適当にそれらしく描けば売れるとしてそれで良しとする
風潮が広がっています。
贋物をいくら描き続けても人に
感動を与えることは無く
伝統文化の継承にもなりません。
また鞆音や大観らは自らの精神性をも追求し
鞆音は自らが武者になりきって武者絵を描き
大観は屈原になりきって屈原を描きました。
つまり本物は
描く題材と同じ心境に達して描いたものだからこそ
本物の輝きと魂を宿し
後世に至っても多大なる感動を与え、
評価を得ていると言えるのです。
(次回に続く)


1
2013/12/4
食品にも様々な贋物が存在します。
特に食品添加物の中には数多く存在しています。
日本人の味覚に好まれるのがうまみ成分ですが、
鰹節や昆布などのうまみ成分であるグルタミン酸やイノシン酸を
人工的に作り出したのが、人工アミノ酸
つまりグルタミン酸ソーダ(=グルタミン酸ナトリウム)や
イノシン酸ナトリウムです。
昔はどこの家庭でも家で鰹節を削ったり、
昆布から直接出汁を採っていましたが、
出汁を取る手間を省いたり、安く簡単に出汁の旨味を出す為に
味の素や顆粒出汁などが出回るようになりました。
確かに合成出汁によって、それらしい旨味は出ます。
けれども本物の鰹節や昆布の出汁の旨味に比べれば
それは明らかに異なったものであります。
子供の時から本物の出汁の旨味で育った人と
子供の時から旨味もどきの贋物の人工アミノ酸で育った人では
旨味を感じ取れる「舌」が明らかに異なってきます。
贋物の出汁で育った人達は
躊躇なくファーストフードや冷凍食品、
スーパーマーケットやコンビニのお総菜やお弁当を買い求め
連日食べても、何の違和感も感じる事がありません。
ところが本物の出汁で育った人達は
安価な外食産業の食事や出来合いのお惣菜、
ハンバーガーやコンビニのおむすびを食べると
舌がピリピリしたり、あまりの不味さに食べ物とは思えないことでしょう。
ましてや連日食することなど、到底出来ません。
一時期、人工アミノ酸に対して、
「危険食品」のレッテルが貼られて遠ざけた人も多いと思いますが、
現在では人体への危険性は無いと科学的に証明されて
今尚、店頭には多くの人工アミノ酸商品が並んでいます。
確かに人体への直接的な危険性は無いかもしれませんが、
贋物の旨味もどきの味しか理解できなくなってしまった人には
いくら高級料亭で最高の食材、最高の出汁の旨味を提供されても
いつも食べているファーストフードの方が美味しいと、感じてしまう事でしょう。
何故なら、本物の味は余りにも品が良く、贋物のどぎつい味に慣れた舌では
その品格のある味を堪能する事が出来なくなってしまっているからです。
また、マーガリンと云うバターの贋物に使用されている
トランス脂肪酸については、
摂取過多によって心筋梗塞を引き起こすなどの危険性があるとして
欧米では使用が禁止されています。
日本では未だに「使い易い」と云う事でマーガリンは店頭に並んでいますが、
マーガリンはパンの製造にも使用されており、
直接摂取しなくても、表示を確認すれば分かりますが、
マーガリンを使用したパンは相当数出回っています。
マーガリンにしても、本物のバターの味を知らない人は
全く問題無く使い続ける事でしょうけれども、
一度バターを使った人であるならば、
二度とマーガリンなど食べたいとは思わない事でしょう。
また人工甘味料(アステルパーム)なども同様です。
つまり贋物に慣れ親しんでしまった舌は
本物を味わう事も出来ないし、
本物を求めようともしなくなる、
と云う事です。
旨味一つとっても、本物を追求しようともしなくなった人達は
何事も贋物で満足してしまうと云う事です。
人生の中で最も頻繁に関わる頻度の高い食生活に於いて
常に贋物で良しとすると云う事は
人生に於けるありとあらゆる自分との関わり合いのある事に
本物を見出そうとする直観力も失われていくと云う事になるのです。
戦後の日本人の食生活は本物に似せた贋物が相当に出回って、
極力安く、簡単に、と云う贋物志向が強い傾向にあります。
本物志向が失われて行ったことで
周りを見回せば、ありとあらゆるものが贋物で覆い尽くされています。
そして、贋物で育った多くの日本人は、
本物が一体何であるのかも理解出来ず、
結局は贋物を本物と思わされても一向に気付く事すら出来ません。
昨今の食品偽装問題もその良い例でしょう。
また本物を見極める五感を失った人達には
「本物=高い」「贋物=安い」と思い込んでしまっており、
贋物でも高くしておけば本物と思うであろうと云う思惑で
偽装や詐欺が横行していると云う訳です。
最早近年の日本人は、本物か贋物かなどどうでも良くて、
「自分が気に入れば良い」という三流以下に成り下がっており、
このような三流以下の民族からは
何一つ「本物」は出て来ないと言えるでしょう。
簡単に言えば、ダイヤモンドの原石を見極める目を失ったと云う事です。
きらびやかにイミテーションゴールドで光り輝くモノだけを追い求め
真の光を放つモノには目もくれないと云う事です。
本物が認められ、産み出されていく為には、
本物を見極める人達の存在が必要なのです。
誰一人、本物を見極められなくなれば、
贋物が横行するばかりで、本物は決して陽の目を見る事は無いでしょう。
(次回に続く)


1
2013/12/3
約1年間、グッピー入れた水槽に
本物そっくりの造花の水草をいくら入れても
繁殖力旺盛なグッピーと云えども、
残念ながらその数を増やすことは出来ませんでした。
そして水質を安定させる為に、添加物を投入するのですが
結局のところは安定にはつながらず、
繁殖する事も無く、死に絶えるばかりです。
しかし本物の水草を入れたところ、水草が繁茂して
約1ヶ月で水質が安定し、それまで繁殖する事も無かった
グッピーが次々と子供を産み続けて、
あっと言う間に水槽の中が賑わいを取り戻していくではないですか!
どれだけ本物に似せて作ろうとも、
所詮は石油繊維で作られた造花であり、
グッピーの子供達の隠れ家には絶好であっても
生物が生きていく為には天然の植物には及ばないばかりか、
何の意味も為さない、と云う事が明確に分かるのです。
所詮は人工物は人工物であって
天然のモノには適わないのです。
つまりは此れは人類にも言える事であります。
例えば、ディズニーランドで様々な動物が人工的に演出され
自然が再現されておりますが、
それはあくまでも人工物以外の何ものでもなく、
触れたとしても、生きている鼓動や質感、体温を
五感で感じる事すら出来ないのです。
斯様な人工物を愛でて、楽しんでいる人達が数多くいると思いますが
このような人工物からは何一つ得るモノは無く、
生きた本物の動物がいる動物園にでも行った方が遥かに為になるのであります。
生物が生きているからには、呼吸をし捕食もし、排泄もします。
その全てを見て初めてその生物の生態が理解出来るのです。
人工物からは臭いも無く、鳴き声も無く、何も無いのであります。
つまり、得るモノも何も無いのであります。
(次回に続く)


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