2015/12/17

思い出が帰る場所  福島の猫たち

12/13〜12/14、福島へ行ってきました。

今回は、久々、ボンママと一緒。


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「解体物件」となった依頼主さん宅



この家は津波被害には遭わなかったものの、地震の損壊がひどくて。

訪れるたび、二階の瓦(かわら)屋根から崩れていって。

泥棒にも入られて。今年の春は除染作業もしたのだけれど。


とうに表札は取り払われていたのだけれど。

たぶん、次回行ったときは更地になっているかもしれません。

(給餌器を残すようの工夫をしてくるのを忘れてしまった…)


最後に保護したのは、サンタともっちー。

けれど、複数の猫がごはんを食べに来ているのはわかっていて。

それでも、道路の向こう側、直線距離でそう遠くないところにまだ給餌場所は確保できているので。

(サンタは両方の給餌場所を行ったり来たりしていました)


残念だけれど。


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ご支援していただいたフードを積んで




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銀杏の黄葉も終わり、浜通りは冬の景色でした



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浪江町で



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事故があった第一原発から半径20キロ圏内の「旧警戒区域」とひと口に言っても、自治体によって事情はさまざまです。

浪江町や南相馬市小高区、楢葉町、富岡町は近いうちに(おそらく東京オリンピック前までには)避難解除が宣言され、「いつか帰ることができる場所」になる町です。

それに反して、汚染土などの仮置き場、中間貯蔵施設が予定される双葉町や大熊町は帰還のめどが立たないどころか、もしかしたら「もう帰ることができない場所」になるような町。


にゃんこはうすのレスキュー班は全域に給餌場所がありますが、今は捕獲器をかけるところは大熊町、双葉町がメインです。

この日も手持ちの捕獲器すべてを大熊町の給餌場所に掛けた後、浪江町を回っているときにこの日見かけた唯一の猫と出会ったわけですが。


捕獲器はない。

衰弱が激しいとか、緊急性はない(であろう)。

この町には他にも複数の団体が入っている。



立ち入りが全面禁止だった以前のように、何が何でも保護、という頃に比べキャパシティが少なくなっている。


など、自分でも言い訳がましいなあ…と思いつつ、何より自分たちに言い聞かせ自分たちを納得させて。


なかなかつらいものです…。



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浪江町にある慰霊碑も、共同墓地ができたせいかひっそりとしていました。

写真の右側奥に、第一原発の排気筒が見えます。

左手奥の白い壁で遮蔽してあるところは何かの工事中らしいけれど、ここは海岸から1キロに満たない津波ですべてがなくなった場所なので、おそらくがれきの処理場か汚染土の仮置き場になるのかもしれません。

このあたり、道路脇に延々とあった船やがれきはなくなったけれど、いまだ震災直後のままの全壊した家が津波の恐ろしさを伝えるまま残っているのもいくつかあって。

持ち主と連絡が取れないんだろうね…もしくは家族全員が亡くなったのかもね。と、ボンママが言いました。



先日、岩手の沿岸被災地に行ったとき、車が埃と泥で色が変わってしまうほど、あちこちでかさ上げ工事が行われていました。日曜なのにトラックが行き交い…以前の町並みや道路が思い出せないほど、どこかの山を崩して持ってきた土で以前より何メートルも高い地面にかさ上げをし。

ジュリアンがいた山田町の織笠地区も工事作業中で。そこへつながる細い道路に車を乗り入れるのがためらわれるほど、高く平らな赤い土が整然とならされていました。

町長はじめ、職員のほとんどが流されてしまった大槌町の役場は、コンクリの枠組みだけが残されていたのですが、そこに車を停めていると作業員の人が近づいてきて手振りで移動するよう指示してきて。折しも、震災遺構として遺すか壊すか町で選択を迫られているときでもあり。何より、カメラを向けるのもはばかられるほど生々しく。



先週、NHKで100年後の誰かへというドキュメンタリーを放送していました。

福島浪江町の、今も放射線量が高く“戻れない場所”となっている赤宇木(あこうぎ)地区のことを伝える番組で。

町並みや、そこに住んでいた人たちを見ていて。

戦後、大陸の満州から引き揚げてきて、新たに土地を文字どおり切り拓いた場所。田植え踊りの民俗芸能。酪農を基幹産業にすべく、当時20万円を手に握りしめ北海道の八雲という酪農の町へ牛を買い付けに行き、3日3晩かけて牛を貨物列車に乗せ、自分も一緒に干し草に首まで埋まり、ウイスキーを飲んで寒さをしのぎ、赤宇木まで帰った、今は95歳になる元町会議員。浜通りからは30キロ以上離れているため、浜通りにできた原発の景気に乗りきれず、けれど出稼ぎで町を離れるのはつらく、新たに原発を立地することに賛成して(結局、それはかなわなかったのだけれど)。

その赤宇木が。浪江町で今も一番線量の高い帰還困難区域となってしまった。

切り拓いた土地も、かつて何十キロもする大きく重い石を山頂までかついで村の鎮守にした神社も。

すべてが緑に覆われつくし、除染もされず。牛もいなくなってしまった。

思い出は、どこに行ってしまうのか。

親戚のいる関東に避難したままの人が語る町の思い出。

今も仮設で暮らす人が、寂しげに話す若いころの思い出。

町と共に育てていった思い出の行き場は。



かつての町の姿は、どこへ消えたのか。


*****

関東・多摩川沿いの南北を走る南武線で使われていた列車が、この度その仕事を終え、インドネシアのジャカルタ鉄道に譲られるという記事が話題になりました。こちら

話題になった最後のアナウンス。

「ただいまご乗車いただいておりますこの車両は、本日をもちまして南武線の営業運転から引退し、今後はインドネシア・ジャカルタに渡り、走り続けることとなります。まもなく終点の武蔵中原です。電車をお降りの際は、お忘れ物のございませんように、また、この電車との思い出もお持ち帰り頂けたら幸いでございます」



思い出を持ち帰る人がいる場所。そこが被災地でもなければ、戦場でもなければ、きっと思い出は幸福の空気とともに温かくよみがえるのだろうなと思いました。

赤宇木の人が抱く思い出は、その人たちにどうよみがえるのかとふと思うと、悲しいとか寂しいとかひと言では言い表されない、心臓がぎゅっとしぼられるような気持ちになります。


電力を生み出すだけの函(はこ)が、“二度と帰ることができない”原因を生み出すものであったこと。それを安全だから、大丈夫だから、町の活性化のために…などという言葉でうやむやにしてしまったこと。

きちんと責任を取れないことを実行してしまったこと。

誰を責めたらいいのか。責めたところでどうなるというのか。

何より、行き場を失った温かい思い出は。思い出を抱く人たちのこれからは…。


いろんなことを考えます。


思い出を抱く自分たち一人ひとりが健やかに毎日を送れることが何よりも大切なのに。




まったく関係ないのですが、かつて南武線を使っていた一人として、南武線の記事は感慨深いものがありました。

当時は中央線や京浜東北線などからのお下がりの列車が使われたりしていて。

オレンジの車両と水色の車両と黄色の車両がつながってホームに入ってきたりして。

今の南武線の列車は、なかなかおしゃれなんですね。


私が南武線に乗っていたのも、もう20年以上前のことになるのか。

この沿線沿いの多摩川河川敷に。
かつてたくさんの行き場のない猫がいたのです。

ヒゲゾウも、ここにいたのです。

たくさんの猫たちが、ある日、“風になって”その場所から消えてしまった。

けれど、かかわった人たちの胸に、思い出としてしまわれているでしょう。

(今回のカレンダーご注文者の中にもおふたり、河原猫に関わる方がいらっしゃいました。
ありがとうございます!)



派遣OLをしながら、夜は5行分のディスプレーしかないワープロで、ロマンス小説のリライトを懸命にしていたアパートも、この河川敷の近くでした。

生活するのに必死だったあの頃の思い出は懐かしく、今も鮮やかによみがえります。












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タグ:  ペット 被災



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