ようやく田んぼにトラクターが見え出して、育苗ハウスの苗が緑を増している。三郎次の種まきは先週末だったので、苗はまだ伸びていない。25日ころには水が上がるとの目途が伝わってくると、種まきが遅すぎたのかなとの焦りを感じるわけです。
種まきをしながら思ったこと。
稲の種籾をスジと言う。昨年秋、稲は実を稔らせてその一生を終えたわけであるが、この春にはその実を水に浸すことで、あらたに芽が出てくる。
その芽の生長と、秋には再び稔りを迎えるこの繰り返しが、祖先から引継ぐ生命の連続を意識する日本人の考えと重なって、稲は私たちの気持の中に深く入りこんできたわけです。
その芽の出が「めでたい」の言葉につながっているのかなと思います。
稲の芽がきれいに揃って出ると気分がいいものです。
「ゾックリと芽がきれた」と言います。でも
コシヒカリは他の稲品種よりは芽の出が悪く不ぞろいの傾向があります。
水に浸す期間とか、出芽ときの温度管理はどうするかと、発芽が揃うように、いろいろな技術的工夫はありますが、やっぱりコシヒカリの芽そろいは悪いのです。
コシヒカリは野生の強み、力があると書きましたが、発芽が不ぞろいなことも野生の素質と思います。
芽の出が揃わないことは、管理する側、育てるほうには不都合ですが、稲の側からすると、一せいに芽が出て、そのとき何かの災害 (たとえば異常低温とか) に遭遇して、生命が一せいに被害を受け、全滅することは避けなければなりません。人間が管理する、育てる環境よりも、自然の状態にその危険は多かったわけですから、野生で生き延びる知恵は、不揃いであったことになります。
バラバラ不揃いなコシヒカリは他の稲よりも、野生のチエを持っている稲と思うわけです。
稲は実りが不揃いであると、一せいに収穫できない。ここに栽培する人間の側の不都合がある。人間に慣らされた稲はこの「そろい」と云う一せいが強調されてきました。
コシヒカリは不思議なことに、芽の出は不揃いでも、秋の実りはきれいに揃う稲です。他の稲よりも実りがよく揃うことが、コシヒカリの品質が優れていると評価されるゆえんと考えています。
コシヒカリは野生の力を持って、なお人間の側の稲です。
( コシヒカリのスジ、胚芽を内側にして並べました。芽の突起が伸びたもの、まだふくらんだだけで、芽切れていないものと、不揃いです。)
今、川口ではほとんどコシヒカリだけの栽培です。有利な米を一せいに作付けすることの効率は良いのですが、自然環境であれ、社会状況であれコシヒカリを取り巻く状態の変化が起きたとき、他に生き残れるのは何か?。難しい問題を抱えています。
コシヒカリだけを作付けしていると、コシヒカリの特性、他の稲との違いが見えてきません。コシヒカリを作りながら、コシヒカリのことがわからなくなってしまいます。

0