出穂の早かった田んぼでは、穂が傾いて かすかにいろ付きはじめている。
仲間に会うと、
「 おれのとこは、まだ花がおさまらないや 」 と云う人がいた。
「 どうした 」 と聞くと、
6月11日まで、頑張って 田植をしていたとのことであった。
疎植 1本植、こんなつくりでは 出穂がおくれている。
でも、これがコシヒカリかと、豪快な稲。
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さて、稲のことを差し置いて ふれるのは、 前回の戦没者慰霊碑につづいてのこと。
『 川口町史 』によると、
川口町での戦没者は 三百二十三柱となり、うち昭和19・20年の戦没者は二百一柱となっている。
慰霊碑に刻名されている最初の戦没者は、明治10年の
西南戦争の出役での戦死であった。明治政府は、この西南戦争の戦死者を、
戊辰戦争の戦没者を祭祀した東京招魂社に合祀して、それが現今の「
靖国神社」とのことである。
戊辰戦争は、明治維新にあたって国内で、いわゆる西軍と東軍が激突した戦いであった。
子どもの時、
小千谷の船岡公園にあそびに行ったことがある。そのとき 公園のおくにあった沢山の墓碑の印象は、いまも記憶にのこる。後で知ったことでは、戊辰戦争のときの官軍の戦死者の墓石であるとのこと。それは招魂社・靖国神社に祀られる人たちの墓だったのである。
さらに後年に知ったことは、戊辰戦争で賊軍とされた
東軍の長岡藩とか会津藩の戦死者 (
当時の川口は、会津藩領域) については、埋葬することも弔うことも許されなかったということであった。当然に これらの戦没者は、招魂社・靖国神社につらなる立場にはならなかったのである。
勝者となった
西軍による明治政府であるから、敗者となった東軍への態度はおのずと見えてくることである。しかし、今にして思うなら、日本と云う国にとって あの西軍・東軍の戦いは何であったのだろうかと、船岡公園の墓石の印象の記憶が問いかけてくるのである。
長い鎖国のつづいた日本が、西洋との接触によって近代の扉が開かれようとするとき、この国のあり方をめぐって、体制を二分した争いであった。当時はともかくとして、後年の歴史の中の評価が、単に官軍と賊軍であってよいのかと 問いかけてくるわけです。
靖国神社が国のために殉難した人たちの慰霊のためとするなら、戊辰戦争を もはや官軍・賊軍のかかわりでなく、歴史評価のなかで
ともに近代日本の誕生のときの殉難者として、西軍と東軍の別なく慰霊することが必要ではないかと思えてくるわけです。
ところで、戊辰戦争の西軍・東軍のことと
コシヒカリは関係ないのであるが、やはり思い込みはある。
三郎次は、学校を卒えて田んぼに入ったころは まだ米の
主産地は西日本と思っていた。それがいつか東日本、北陸 そして東北に移っている。東北の稲作の冷害克服が大きく寄与していることは違いないが、コシヒカリの誕生と、その血をひいた後継品種の
あきたこまち・
ひとめぼれ・
はえぬき などが、東北の主要品種として誕生して、「
コシヒカリ系譜の邦 」を形成すると、日本の米事情は 大きく 「 コシヒカリ系譜の邦 」 にゆだねられるようになってきたのである。この米の邦の首座は新潟県のコシヒカリであるが、次いで会津のコシヒカリが大きな地位を占めるようになってきた。
新潟と会津、そして東北としたとき、それは
奥羽越列藩同盟として西軍に対峙し、なお敗れた地域である。しかし明治維新から百数十年、ともに近代日本の成立に努めてきた歴史の中でも、靖国神社には東国の立場が認められてきたであろうか。
今日の世情のなかで、近隣諸国との間で 靖国神社の問題には、日本が譲ることの出来ない内容をふくむのであれば、国内のこととしても、戊辰戦争での敗者を排除する靖国の思想は何なのかと、疑念がわいてくる。
日本の稲作文化は西日本から広まったことは確かであろう。だがその稲作文化の意味を絶えず問いかけてきたのは、「 コシヒカリ系譜の邦 」を作り上げた東国の風土からであったのである。

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