今日は、自分の身の丈に大きく余る、辛気臭い記事になります。
さりげなく見ていた新聞のTV番組の紹介に、NHKの 「
その時歴史が動いた 」 があった。今夜NHK総合夜10・00からである。
失われてゆく日本の伝統文化に大きな意味を見出して、民俗学を起こした
柳田國男の軌跡を、作家の立松和平氏がたどるとのことである。
明治33年、東京帝大を卒業して農商務省に入った柳田國男は、新鋭の農政学者であり、また農政官僚となったのである。やがて柳田の視点は農政学から、日本の伝統的生活習慣の中から、伝統文化の意味を問う
民俗学へと移ってゆく。その転換となる兆しの象徴的な著作(論文)が、『
後狩詞記 』であり、『
遠野物語 』 であったことは、これまでも大きく知られていた。
今夜の放送は、まだ見ていないので分からないが、『 遠野物語 』の発表で転換してゆく柳田國男の思索が、近代化が急速にすすむ明治・大正期に、日本文化の再発見に大きく寄与してゆくことを、立松和平氏が語るのではないかと予想されます。
柳田國男は明治41年、
宮崎県の山村 椎葉を訪れている。『 後狩詞記 』はそのときの見聞からうまれている。九州から帰ってまもなく柳田國男は、
東北の僻辺遠野の話に触れて、強い興味を抱くことになって、その集積を『 遠野物語 』として 世に問うたのである。
こうして南と北の日本の辺地、しかも山村には、急速な文明開化の時代にとり残されて遺る古風に出会って、大きな衝撃を受けた柳田國男の学問の変化がみられるのである。その意味で『 後狩詞記 』と『 遠野物語 』は、日本の民俗学にとって、その発祥につながる記念碑的な論文とされている。
このことについて、三郎次などが なんら論ずる立場にはないのである。ただ見落とせないことは、柳田國男が九州に視察旅行する一年前の、
明治40年の初夏に、新潟県内を講演と視察で通り抜けていることである。そのおり、
魚沼にも立ち寄り、堀之内で講演をすることになって、その案内状が遺っていた(中山)。
柳田の講演内容までは、三郎次はたしかめていないが、そのとき魚沼で何を見て、何を感じたのか、後の昭和23年の『
北国紀行 』に収められている。
蒲原平野で触れた水田のことは、魚沼ではほとんど触れないで、「
畠多くして悪し」と述べ、畠地小作料の低いことから、長岡周辺にくらべた土地利用の効率の悪いことの指摘であった。
豪雪による晩い春と、早い秋冷は、稲作にしろ畑作にしろ魚沼の農作には有利ではない。加えて川口などの河岸段丘の土地はやせている。相応の面積の畑地を持ちながら、前代の切替畑とあまり変わりない水準の耕作が続いていたのである。
旅人の柳田國男は、魚沼の貧困と後進性に驚きを隠さない記録を残していた。
「古志と魚沼三郡農民には、ユカ(
床のこと)無き家に住む者多し」として、つづいて「斯ういう村々にても皆常食は米なり」とか、「麦食を勧むれども未だ行われず」などの記述がのこっている。
貧しい出自とされる柳田國男であっても、西国の生出で東京で官についた者としては、魚沼のありさまを信じられないとばかりの眼で見たのであ。この魚沼での見聞が予習になる伏線となって、翌年の九州視察には、椎葉の山村にまで引き寄せられたのではないかと、三郎次の思い入れである。
魚沼での驚きが、椎葉につながる伏線となって、その衝撃が『 後狩詞記 』を生み、それがさらに『 遠野物語 』につながっていることを読みとるのです。
今日ある魚沼が、たんに
美味しいコシヒカリの産地であることだけでなく、日本文化のなかで、その存在がどんな意味あいにつながるのか、三郎次の大きな問いです。
この大仰な走り書き込みは、NHKTV.放映の時間となるので、ここで留めます。
★ えちご魚沼、川口町です、三郎次。
魚沼産コシヒカリ < 三郎次の米 >
魚沼産コシヒカリ < 減農薬・特別栽培米 > 新潟県認証

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