川口町に隣接する魚沼市の方のブログに、とても興味ある記事がみつかりました。
コシヒカリを、魚沼の風土のなかに見出したい思いの三郎次には、感激的な発見です。
お願いして、
ここにご紹介します。(クリック)
「 萬覺帳 」とするこの綴りは、約百年ほど前の明治半ばすぎの農家の記録のようです。
この書面を見つめていると、遠い記憶をよびおこす言葉が目にふれて懐かしい気持ちと、また理解のおよばないことがらも多々あることに気づくのです。
1世紀100年が長かったのか短かったのか、百年まえのこの時代を、先人の残した記録からも読みとることが難しくなっているほど、日本の近代化のなかの激動の年月と思い知らされるわけです。
(魚沼市のスベルべさんのブログから)
この書面は、収穫した米についての記録のようです。
七俵 ソラ米
七表 下付米
四斗 ケシ子
〆拾参俵壱斗 皆〆
七俵、七俵、四斗の〆合計が13俵1斗とは、どうしたことでしょうか。
まずこの単純な計算の不思議に出くわして面食らうわけです。どうして15俵にならないのかと。
この不思議の理解に、50年前の記憶がよみがえって来ます。
ソラ米は、次の収穫時までつなぐ貯蔵米でした。ケシ子は ケシネ米で、当面の日常のために小出しにした飯米のことです。
ケシネ櫃、
ケ着もん、ハレにも
ケにも一張羅と、
ケの意味を学問的に究めていたのは、和南津出身の民俗学者・桜井徳太郎先生でした。この
ケの意味を体現して、日常の飯米となる米がケシ子(
ネ)だったわけですが、この言葉を聞かなくなって50年でしょうか。
ソラは高いところ、家の中では天井のことです。かって、萱葺き屋根の低い家では二階建てではありません、一階建てに天井を張らない空間がソラだったのです。この空間の梁などに架けて木材を渡して置き場を構え、米の貯蔵場にしていました。これがソラ米です。
魚沼の降雪に追い立てられるように穫り入れた稲米は、乾燥が不十分なため、梅雨期を越す長期の保存には、品質が落ちないように ソラ米にします。火なた(
囲炉り)の煙がまわるところでは、米に虫がつかないからと、ソラ米の俵が煙で煤けていました。
この高いところに重い米俵を上げるのが大変です。普通は4斗1俵で16貫目(60s)のわけですが、ソラ米は軽くして、3斗1俵の12貫目(45s)でした。それでも重く骨折りの力が要ります。ところが、家の食べ物の管理責任は家トジの役目とばかりに、その重い米俵を主婦が任されたとも聞きます。
ここまで記憶がかえると、長期の蓄えのソラ米を3斗1俵、短期間の保管で平間に積む下付米は4斗1俵で計算して、七俵、七俵、四斗の〆合計が13俵1斗となることが分かります。
気がつくと40入、30入の但し書きが付いています。
そう云えば田麦山の庄屋を務めた旧家、大淵家では大ソラに昆布の俵を蓄えていたそうです。飢饉時の困窮者に昆布の粥を施すための用意だったと、故人になられたおばば様が話していました。
ソラの上が大ソラ、その上部にヤギリがあって、屋根のグシもその部分に当たっていたのかなと思い出します。屋根裏ソラは、その家にとっては聖なる空間だったようです。
ソラ米は、その聖なる空間に託したもので、やがて、日常の命を養う
ケの食糧に転生するための場と考えるのは、思いすごしでしょうか。

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