コボレは大唐米、小法師、そして坊主稲だったのか。
現物のコボレ稲でたしかめればよいのだが、それが出来ない。
20年ほど前になる、堀之内(
魚沼市)の田川入り近辺の農家の土蔵に残っていたというコボレの籾(
明治二十何年の木札が付いていた)5合(
9ℓ)ほどをもらったのだが、6.23地震災禍のおりにゆくへが紛れてしまった。赤籾ではなかったが、爪で殻を剥くと
赤紫の色の濃い玄米があらわれた。
手のなかで、指先で押しても折れるほどの細い長粒米であったから、『 稲の日本史 』に紹介された
魚沼の長粒赤米にあたると考えている。
そのときにはまだコボウシ、坊主に思いついていなかったので、芒の有無は記憶に残っていない。たぶんなかったと思うのだが、たぶん・思うではいけないので、この先に進めないのである。
だが
確かな特徴だけ抑えておく
@ 生育期間が短い早稲 A 長粒赤米 B 稲籾がもげ落ちやすい C 食味はまずい
Bの脱粒性については、その呼び名につながるのであって、籾落としは簡単に臼に叩けばよかったとのことである。稲刈りはムシロを敷かないと籾が堕ちてしまう厄介もあった。概して、ABCはこの稲の利点にはならなかったであろう。するとこの稲をつくり続けるわけは@にあるのか。
この@の早く収穫できる特性は、食いつなぎ米の立場につながっているのである。だがそれだけでなく、春がおそく冬の早い北の国では稲の早生化をもとめる志向は強いのであった。魚沼でも山地の村では早稲・中稲をつくり、平場の村では晩稲をつくることが、江戸時代の川口地域の「村明細書上帳」にみえている。
山手では作柄の安定のためには、晩稲は危険である。平場では収量性に欠ける早稲では不利である。こんな意味で早稲、晩稲の作り分けの構図がみえてくるのである。
コボレ稲のことで話を聞きまわっていたら、三条の「裏館村明細帳」や「越後風俗志」にもみえた「六八日」という稲が、昭和初頭の小高(
田麦山村:川口町)にも作られていた(
田麦山:大正生まれ)。この稲、六八の48日で収穫出来るからとの早稲である。
牛ヶ首(
川口町)では、北海道から取り寄せた超早生種の「北海道ワセ」がつくられたとの語りも聞けた(
牛ヶ首:昭和生まれ)。
このような早稲志向の環境では、おなじ超早生種のコボレ稲も存在意味を持ったのである。
北国の山間地での早稲志向は、早い秋冷にそなえてのことは当然であったが、コボレ稲がABCの特徴をそなえた大唐米ならば、それ以外の事情も語れることになる。

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