「貞享二年川口組絵図」は、当時の川口組の村々とその枝村の位置をしめし、赤い線でむすぶ道筋をかきこみ、三国街道は太い線に画かれている。
村々の石高と、古跡や重要施設とおぼしき建物も書き込まれていた。その規模の大きさと精緻に圧倒されて、細かなところは見落とすばかりである。だから町の
資料館を訪れて、展示の絵図(
複製画)の前に立つたびに、新知識の発見の気分があった。
この組内村々20ヶ村は、今日の川口町域からは考えられないほど広範に亘り、信濃川沿いの上流と、下流域にもおよんでいる。
長岡藩領から進むと三国街道は妙見の峠を越えて魚沼となる。10.23地震で大きな崩落で犠牲者の出たところで、かっては山越えの道であった。

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この峠を越したところからはじまる川口組は、まず薭生村であって、そこには上
杉氏の時代には、平子氏の拠った薭生の山城跡がしめされていた。そして枝村中子に分岐した道は、信濃川をこえて小千谷組につながる。

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薭生村古城址)
三国街道が川口村にいたると、松沢川にかかる橋がしめされ、林の中に描かれた建物は「泥障大明神」(
あおりさま : 川合神社)であろう。

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東川口の あおり神社)
川口村は組本村で、大肝煎りの中林氏の本陣屋敷がある。画かれているのはその組本陣と、背後の小さい建物は鎮守の日光社であろうか。
川口村からは枝道が分かれて、魚野川の対岸の枝地の西川口に通じている。

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川口組本陣)
西川口にも、林に囲まれた構築を見るのであるが、これが何の建物か定かでない。
古記録にしめされていて、今日の川西神社に組している泥障神社と想定できるのだが、この 泥障さま(
あおりさま)は、魚野川を挟んでニ社あったことになる。明治の神社統合のなかで、忘れられそうにある西川口の 泥障社のことは、川合神社の意味を考えるとき、重要なこととなろう。

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西川口の あおり神社?)
信濃川に沿うと、西川口の先の内ヶ巻は川井村の枝村となっている。ここには、薭生の山城とおなじく上杉氏の時代に、田中氏の拠った古城山の跡が画かれている。
中世末期には、内ヶ巻城の田中氏の強い影響が川口村・和南津村などにもおよぶとした古記録が残されている。
また内ヶ巻の先に川井村の山腹の構築物は、愛染明王の妙高寺であろうと推察できる。

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内ヶ巻古城と川井妙高寺)
この大絵図のなかで、川口組二十ヶ村の古跡・重要構築をたしかめると以上のようになる。このほかには魚野川に沿って三国街道を進むと、魚野川を和南津村への川渡りに「渡場」と画かれていて、ここは正保国絵図に「舟渡りはゞ一丁八間」としめされていた。
川渡りの道筋は、薭生村中子から小千谷へ、また牛ヶ島村貝の沢か相川村天王からの片貝村への渡り、そして川口村から西川口へと、幾筋もの渡り場があるのに、舟渡り場としてしめされるのは和南津渡し場の一ヶ所だけである。関東往還の重要街道の渡し場の位置づけが見えているのである。
さて、
とび坂峠 はどうであろうか。山陰か林の蔭に小さく見落しそうな何かに気づいていたのだが、その存在の意味あることに思いあたらないまま、見過ごしてきた何かである。

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和南津渡し場と、とび坂)

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