無為の日だけをすごしてきたつもりではないが、あの峠に立ちはだかる雰囲気と問答しながら突き進む道が開けない。
いくつかのキーワードが頭の中を経巡るだけである。北陸路でふれた
立山と
白山、そして
観音と
大日像。横浜のみなとの
海と、行き交う
船。いずれも三郎次が日常で目にし、想起する風景ではなかったので、ものめずらしさから受けた深い印象が残っている。
あの峠の周辺から拾えるキーワードに、その上の段丘面が
大塚の原であったこと。大きな塚があったと聞いていた。
峠を下りたところの旧い
新道島村、このムラの成り様にも、地名にも気がかりがあって、さらに川向こうに移った新しいムラの背後の
羽黒社とその伝承がある。そして八郎場の真向かいの
笹舟戸ムラの鎮守が
白山権現であったことも見落とせない。
これだけのキーワードを処理し、整理する知識はないが、この藪こたまを掻き分けて抜け出すに、必要な手だては想像力にすがることになる。
まずこの峠に宗教的な雰囲気を感じて、鎮守のお堂を尋ねて天当大日さまにお会いしたのであるが、この古いお堂の気配からは、真言か天台の密教信仰を感じることになっていた。
隣する新道島の羽黒社のことは、ムラ人の話を聞いただけである。裏山には新道島とも羽黒城とも呼んだ城址があって、南北朝期には羽黒俊賢が拠ったということで、新田義貞の挙兵に応じたと『日本外史』(
頼山陽)に書かれているとのことである。
このことを述べている『堀之内町史』は、これらを伝承の域を出ないとしているが、山には「羽黒平」「カラス泊」の通称地があるというから、中世修験の痕跡だけは認められよう。
民間の信仰習俗では、鳶や烏が天狗などと習合し、さらに山岳修験と併せた語りの流布がみられる。
八郎場の堂守家のお婆さん(
故人)に、そのことを伺った時、「 そんなことは聞くことでない、話すことでない、罰が当たる 」とずい分と叱られた。それでも語ってくれたことは、同家には「てんぐ」とか「とび」とかの爪が伝えられたとのこと、また観音様の「おかんむり」(
冠)もあったとのことである。
大日像を中尊仏とするあのお堂に、観音・不動・毘沙門とならび、とび・天狗が語られると修験密教の構図が浮かぶことになる。
出羽三山の羽黒修験なのか、北陸の白山信仰なのか、そこまで踏み込もうとするとさらに迷路を深くするのでとどまることにするが、背後の丘陵地の大塚は、これも修験行者のかかわった宗教遺構かとみることもできるのである。

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