8月になって、出穂期の稲にふれただけで、書込みが途絶えてしまった。
三国街道に戻って書きつなぐには、これまでの書き込みを、あらすじでなぞっておかねばならない。
川口町、とりわけ和南津・中山は、魚沼市の地域とは、魚野川に沿う三国街道で結ばれて、歴史的にはムラの日常は相互に重なっていた。街道は、和南津の舟渡し場を経て、八郎場の峠越えで、魚沼市域の下島に入っている。この峠は、古く「 とび坂 」と記録に残り、今日のムラの日常では「 そでん坂 」 と呼ばれるなど、二つの呼称をもつ不思議があった。
もう語る人がほとんどいなくなった「 とび坂 」の記憶を掘り起こすことで、地域の歴史と街道の成立が見えるのではないかと、そんな
思いを書きすすめて来たのである。峠を越えて向こうに何があるのかと、そこにも興味があって・・・・。
和南津の三国街道を考えるとき、峠と舟渡し場は、いつも対の関係にある。峠の事情が舟渡し場に見え、舟渡し場のことがまた峠の事情に反映している。
和南津の枝村、小貫の渡部氏は、古く和南津本村にあって、そこを離れた一族とする伝承。さらになを、渡部氏の一統であったが、和南津を離れない家もあって、渡部(
渡辺 )を喜多村と改めて舟渡し場の川端に留まっていたとする旧家の存在。
古老たちのこんな語りを聞きながら、一方で各地の川沿いの渡り場に渡辺氏の存在に気づくなら、和南津舟渡し場にも、
古く渡辺氏のかかわりを想定することになる。
近世の和南津村には、渡し守りの一統が存在した(「
村明細書上帳 」
など )。 だが渡部(
渡辺)氏のことは、そこにあらわれていない。
ムラの伝承を実体として勘案するなら、渡部(
渡辺)氏のことは、近世渡し守の成立以前のことの理解になる。つまりここの舟渡し場は、中世、あるいは江戸時代の初頭までは渡部(
渡辺)氏の支配であったのが、後に近世の「村明細書上帳」にみえる渡し守に引きつがれていたとになる。
この渡部(
渡辺)氏の撤退と、近世渡し守の登場に、近世三国街道の成立をかさねて見るのが三郎次の思案です。

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