和南津・和長島・八郎場に、わな (
罠) 網場の印象をとどめる共通の感覚があったなら、その罠猟の獲物は何だったのであろうか。魚野川縁の村名であるから、川辺の鳥類あるいは川魚などが思い浮かぶことになる。水鳥ならば鴨が猟の対象になっていたのかと想像になる。かも捕り権兵衛などの昔話があり、鴨猟は古書にも散見するから、確かに古くからあったのだろう。しかし鴨は池沼に多く下りるもので、川には淀みのところにしか寄らないであろう。魚野川の蛇行は、各処にダブと称する淀みや溜りをつくって、鴨が寄っていたのである。
魚沼に多くいたと云う朱鷺のドウも猟の対象になったであろうか。鷺:サギならば川岸に立っている姿をみるのだが、はたして朱鷺:ドウは川の浅瀬や、淀みの岸辺に下りる習性があるのかは、三郎次には分からないから、勝手の想像だけになる。
魚野川はこの地域で古くから蛇行していたであろうことは容易に想像がつくのだが、いつ頃どうなっていたかなどは、にわかに説明できることではない。それでも50・60年の記憶をさかのぼると、舌状に張り出た八郎場の川原の様子など、おおきく変化していることは確かである。
この地域を地形図で俯瞰してみよう。

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企画:農業土木研究会、発行:農林水産省北陸農政局・新潟県農地部、「水と土と農・シリーズ その1」(1997年)による ) → ( クリック 広域拡大図 )
魚沼三山を擁して急峻な山並みの越後山脈と、低平な魚沼丘陵山地の間を魚野川が北に向って流れている。これが下倉山のところから、破間川との出会いをうけて水嵩を増し、西に流れを変て魚沼丘陵地を横切ることになっている。堀之内と川口は、魚沼丘陵山地に擁かれた地域で、ここを貫流する魚野川は複雑な流域をつくっているのである。
とび坂峠の張り出した丘陵地が、八郎場で魚野川の流れを遮っているので、宇賀地郷には魚野川氾濫原の沖積地が、小さな盆地地形となっている。こうしてみると、この地形が宇賀地の稲作環境に少なからぬ影響になっていると頷くのが、三郎次の立場である。
上の地形図
× 印、とび坂峠対岸の野田側の里山から望んだ冬の宇賀地です。
夏場にも同じ地点からカメラに収めていたが、小雪とは云えこの時期に山上に立つことは容易でなく、三郎次知人の、
山長さんの 「晴耕雨読」 から拝借しました。
今冬2月11日撮影 → クリック(山長さんのご好意で写真拡大)
新道島だけがドウの洲ではなく、目の前で魚野川の曲流を許している宇賀地の盆地が、大きなドウの洲ではなかったかと、三郎次の目には映ることになるのです。

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