ドウの洲のブログにはアクセスが上がらない。鶴献上から10日も更新が途絶えているから、あたりまえであろう。ところでその数少ない訪問の方で、たよってくるキーワードがある。昨日と今日、二日つづきで 「またぐらさま」 と 「股倉神社」 が残されていた。それで気がかりになって今日は魚沼市下新田の魚野川堤防に近い鎮守さまを訪ねた。「またぐらさま」である。

一週間まえにここを通りかかったときには、狛犬はまだ雪に埋もれて、頭が少し出ているだけだったのに今日は写真のとおりで、この春は雪の消え方がずい分と早いのである。
ところで、「またぐらさま」 ・ 「股倉神社」 にどんな関心でアクセスにされたのかは分からないが、この川辺の鎮守さまはドウの洲の宇賀地郷を考えるとき、とても大切なキーワードと、三郎次は思っているのです。でも今日は鶴白鳥のことがまだ終わっていないので、「またぐらさま」に触れないで先に進むことにします。
さて、書き込んでいた鶴献上は、江戸時代のことでも定かにわからない三郎次だから、その先のことなどもっと分からないはずである。かすかな手がかりから推測をかさねるだけになる。
中世末の戦国大名にも鶴白鳥の献上(
贈答)の記録は見えている。織田信長もしばしば朝廷に鶴白鳥を献上しているのである。
江戸時代に入っても諸藩から幕府への鶴白鳥献上には、その先に朝廷への献上があった。そのため無傷の生きたままがもっとも尊ばれたと云う。
鶴白鳥はこのように特別な場合の贈答物として尊ばれると、これは普通の人たちが尋常に猟をし、あるいは食することは許されないものになっていた。
ところが一方で、幕府に献上された鶴などは諸大名に下賜されることも知られている。その下賜された食肉はさらに小さく分けられて、家臣にも給されることになると、この食肉は単に食材としての実用とか、美味しいの意味から離れて、特別の理由を持っていたことに考えねばならないであろう。鶴包丁などの作法式も伝えられている。白い鳥とかかわることに、通常の鳥獣とは違う特別の意識が伝えられてきたのであろうか。
古事記に伝えて、大和から遠く越国の和那美之水門 (
わなみのみなと) にまで追い求め、罠網をはって捉えた鵠 (
白鳥) を天皇に献上したということも、日本人の感性のおく深くを語る物語なのである。
宇賀地と隣り合って、魚野川のドウの洲として連なる和南津が、はたして古事記の和那美之水門であるかの詮索よりも、ドウの洲に降り立つ白い鳥に、日本人は何を想ってきたのかと、そこに三郎次の興味があるのです。
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